(そうだ)
 冷静な判断を俺は既に放棄して久しかった。時間にして一秒もない。けれど俺にはずっと遠い過去のよう。
(こんな奴ら)

 あの富子とか言う女を葬ることは出来なかった。でも、こいつらなら。
 俺を侮っている今なら。

『ソウ。ヤッテシマエバイイ』
 俯いていた俺の視界。映るのは十本の指先。
 そのうちの、一つ二つ。
 青い閃光が爪や皮を剥がすように、俺の意志とは無関係に、漏れ出していく。

 そして爆発する。

「うぃーっす、授業始めるぞ」
 かと思われた。はっと俺は瞬きをする。居眠りから醒めたように何度も瞬きをする。少し目が痛い。周りを見て、両手を握っては開いてみて現実の感覚を一つ一つ取り戻していって、状況の理解、前後の出来事の把握が済む頃にはもう遅かった。
 坊っちゃんは、消されていない黒板の落書きを目の当たりにしていた。
 当然、あの三人の男女の絵もある。
 そして俺を見る。その時の坊っちゃんは一瞬、いつも見せるのとは違う目の色を浮かべていた。本当に、ほんの一瞬だけ。
(坊っちゃん)
 視線に言葉を込める。
(何か、何か言ってやってよ)
 俺が噂話について話した時みたくのほほんとスルーしてもいいし、適当に茶化すのでもいいし、いっそあからさまに怒ってくれたっていい。だから、と瞬きもせずなお見つめた。
(さっきの、あんな、哀しそうな目のこと)
 忘れさせてくれよ。
 けれども、ふう、と、彼は俺の期待に応えずただ息をつくだけだった。
「牛込。消しておいてくれないか」
「……先生」
 授業中はあくまでも生徒と教師の関係だ。教師の言うことには、従う。
 けれど坊っちゃんの眼差しの真意を量りかねていて、行動に移せない。本当はもう着席だってしないといけない。でも納得がいかない。
 何で何も、言わないんだよ。
 普段はあんなに、いらないことばっかり言うくせに。
「先生……坊っちゃ」
「三四郎」
 名前を授業中に呼ばれたのは初めてだった。
「消せと言ってるじゃないか」
 決して怒鳴り声ではない、むしろ穏やかな声だったのに俺は怯む。振り返って俺を見る彼の瞳は、けれども硬い。
 触れてはいけないものにうっかり触れて物言わぬ石になってしまった? 俺も、坊っちゃんも。
 あるいは見えない魔法使いが、魔法の棒を振ってしまった? 石化の魔法を掛けたのか?
 落書きを消した後、それまでの俺の行動やクラスの反応、坊っちゃんとのやり取りが嘘のように何事もなくいつもの授業が始まった。そのことを憎らしく思うことも無ければ戸惑うこともなかった。ただ俺はどこか呆然としていて、操られたように黙って黒板を消し、席についていた。鱗粉のようなチョークの粉が制服に付着していて、汚らしく見えた。

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