そんな風に彼に弄ばれる時間が流れる中、この奇妙な魔法使いの先生に関する、これまた奇妙な噂がどこからかまことしやかに流れ始めた。
 曰く、「天麩羅が大好きで、学校近くの定食屋で特大の海老天をがっついていた」だの、「団子が大好きで、有名老舗和菓子屋でさながらポッキーを二本食べるかの如く自然に二本食いしていた」だの、「赤い手ぬぐいを下げて某銭湯に行き、そこで泳いで教師のくせに注意された」だの。並べても解るとおり非常にくだらない、馬鹿らしいもので、噂の風上にもおけないような風聞だった。ある程度彼を知るようになって考えてみると、でも、あの男ならあるいは、と思えるものばかりでもあるのが悲しいやら呆れるやら。
 第一、服装がいけないのだ。と言うのも近頃、先生はスーツから――一体何をどうしたらその服のチョイスになるのか、と苦々しく言いたいところであるけれど――まるで明治大正の書生のような袴着に衣装を変えたから、それから派生したからかい、とも取れる。
 スーツが制服、とでも言うように男性教師はどの先生もスーツ、体育教師だとジャージだったりする職員の中で時代錯誤のファッションも甚だしいその彼の姿は確かに(例えば弓道部とか剣道部の顧問とかだったらまだ釈明の余地はあるだろうけど)いじりがいのある変人だ。はっきり言わせてもらうが同じ魔法使いのよしみであってもフォローのしようがない。まさかFの人間が使用することによって引き起こされる、魔法の副作用で馬鹿になってしまった、ということだろうか? まさか。思いたくない。
 そんな俺の困惑する想い、いや怨念が伝わったのか、週に何回かは彼がスーツの時がある。それでも袴着の方が割合高めなので、たかが知れているというものだけど。
 話を戻すと、それらの噂は大抵どうでもいいことである。繊細な人はもう学校になんか通えない! となるだろうけど、あの人くらい神経が図太ければ、もう少し品のある言い方をすれば大らかであれば気にすることもない。それにしても、誰かが嫌がらせで流したものにしては、少し幼稚に思える。
「そうか。そんな噂がなあ」
 廊下で見かけた先生にそれとなく告げると、全く恥ずかしがる様子もなく、逆に感心したように頷いていた。
「そんな風にのんびりしてる場合じゃないと思いません?」
「だからタメ口でもいいぞ、三四郎。そして俺のことは坊っちゃんと呼べ」
 随分ずけずけとタメ口、愛称を強要してくるものだ。一体何度目になるだろう。はいはいわかったよ、と俺もいい加減折れて肩を落とす。敬語は、ある意味では俺の意地と言うバリケードのようなものだったのに、そこをやすやすと超えてくる。あってもなくても意味がない。
「のんびりするも何も、全部本当のことなんだから仕方がないじゃないか」
「マジで本当のことだったんだ」
 少しげっそりとした響きだったかも知れない。なはは、と軽く笑う坊っちゃん。
「天麩羅も団子も二本食いも銭湯も赤い手ぬぐいも?」
「さすがに二本食いは脚色だろうがな」
 お前、団子二つも口にくわえられるか? と真顔で問われた。出来ない。
「公衆浴場で泳ぐのもさすがにどうかと思うけど」
「たまたま誰もいない時があったんだよ」
 見られてたとはなあとはにかみ、照れ臭そうに首を掻く。せめてそれくらいは脚色なしのまるまる嘘であって欲しかった。笑ってる場合でも照れ臭そうにしてる場合でもないだろ。
 で? と、坊っちゃんは壁にとん、と背中を預ける。
「三四郎は何が言いたいんだ? 何を、どうしたい?」
 そう問われると。ちょっと唇を窄めた。確かに、俺は何をしたくてどうしたいのか、全く考えていなかった。弱いところを突かれた感じもして少し焦った。
 単なる勘に過ぎない。ただ何か違和感というか、どうして坊っちゃんにだけそんな変な噂が流されるのか、という単純な疑問だ。同じ新任の先生なら沢山いるのに何故彼が? 思い浮かぶのは魔法という能力だけど、関係していそうでいなさそうな、微妙な位置に置かれたファクターといったところだ。俺の勘では関係性は皆無な気がする。
 むしろそうではなく、坊っちゃん一人だけを標的に据えていることから――何か個人的な怨恨絡み、と見える。もう一度改めて真面目に噂を考えてみれば、まあ、真っ当な人間なら恥を感じるに足る内容だ。――ということは、やっぱり坊っちゃんは真っ当な人間ではないということが自ずから導き出されるというわけで、俺はちょっと愕然とした。
(もしや)
 はっと瞬く。魔法を使うことによる副作用でもなんでもなく、魔法使いそのものの性質なのか? つまり、魔法使いは全員真っ当な人間でなく――変わり者、変人、だと言うこと。
(いやいやいや! 俺は断じて変人なんかじゃない!)
 第一サンプルが少なすぎるし! そうやって内心げっそりし、慌ててもいる俺のことなど露知らず、そういえばなあと暢気に坊っちゃんは口を開く。
「この間、寮の宿直してた時にバッタを大量に投げ込まれたことがあってだな」
「バッタ? ていうか寮?」
 坊っちゃんが言うには、消灯後の見回りが終わって、宿直室に帰りさあ寝るぞと蒲団をめくったら、何かが数十匹飛び出してきたのだという。月明かりも無く、照明も落としていた部屋は鼻を抓まれても誰かわからない闇だった。その中で正体の知れない、無数の蠢くモノに襲いかけられた。明かりをつければうじゃうじゃと群れるバッタと、勢いで潰してぐちゃぐちゃになったその死骸が安らかな眠りの空間を汚しているのだ。これは、想像だけでも相当気持ち悪い。うえ、と声に出してしまう。
「ゴキブリじゃなかっただけでもマシだろう」
「またゴキで喩えるのは勘弁してよ……」
 それでも尚、何かを超越した坊っちゃんの態度は涼しいものだ。その現場にいたらとんでもなく驚く彼の様子が見れたのだろうか。だとしたらちょっと見てみたいような――バッタを忍び入れた(むしろ数十匹も集めてこられた)生徒はいい仕事をしたな。
 寮での出来事だ。与次郎に訊けば何か解るかもしれない。こういう馬鹿な祭りにはいかにも参加しそうだし。
「ああそうそう、このバッタ襲撃事件については、主謀者――というか扇動者らしい人物が上がっているんだぞ」
「え? そうなの?」
 なら話は早いじゃないか、何でそんなことしたのか、狙いはどこにあったのか、その主謀者とやらに訊けばいい。ところが坊っちゃんは何かを隠すようににやにや笑っていた。教えてほしいか? と暗に訊いているような感じがする。むう? と首を傾げる俺。
「なんと、寮の生徒を扇動したのは、熊本嵐先生だとさ!」
 何故か、言った後に豪快に笑った。正直俺は置いてきぼりである。
「な、何で? 熊本先生が?」
 熊本嵐。名前の通り体育教師でもやっていた方がいいような、日に良く焼けた、頑強かつ屈強でどっしりとした体つきをしている。が、彼は数学教師、我が一年三組の数学Ⅰを担当していて、つまりは坊っちゃんの同僚である。
子供っぽく話したり振る舞ったりすることも偶にあるが、バッタで嫌がらせなど、とてもそんなことを扇動しそうな人には見えない。彼はよく言われる、顔は怖いが中身はいい人、という典型例に近いからだ。坊っちゃんもそうだろうそうだろうと笑っている。
「山嵐が俺をいじめて何になるってんだ。なあ?」
「やま、あらし?」
「俺のあだ名さ」
 後から急に熊本先生本人の声がした。思わず体を震わせた。振り返ると彼もその引き締まった体躯を笑いによってくつくつ震わせている。なあ、と坊っちゃんが言ったのは、彼に呼びかけたものだったらしい。
「坊やをいじめても精々酒代くらいしか出てこんぞ。そもそもやり方が前時代的だと思わんか。なあ牛込」
「えー、えーと……はい、思います」
 クラスの数学教師に挟まれ、どちらもフレンドリーに話しかけてくれるのはさすがになかなか体験できないことだろう。首を縮め、しどろもどろにならざるを得ない。
「いや? 何も嫌がらせを全て最新テクノロジーに頼ることはないだろうよ、山嵐。原始的な攻撃が結局は一番効果的なんだ。いじめの最初の段階はまず無視から始まるだろう」
「まあそうだな。それにこういう直接的なことが、いかにも高校生らしいガキくささを感じさせらあ。難儀なことだな坊や」
「なあに、楽しんでるさ」
 鼻で笑ったように言う坊っちゃんに熊本先生は会議に遅れんなよと威勢良く告げ、去り際、坊っちゃんの肩をどしんと叩いていった。正直俺は終始きょとんとしていて、目をぱちぱち瞬かせていた。
「仲、いいんだ」
「年も近いからな」
 職員室で坊っちゃんが孤立しているわけではないらしい。坊っちゃんも至極楽しそうに笑いながら俺の元から去った。

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