そんな風に俺の規範のように悠然と前に立ち続ける坊っちゃんこと松山坊教諭はしかし、こっちの焦燥なぞいざ知らず、単にいつでもどこでもマイペースを貫いているだけなのかも知れない。
「また煙草吸って!」
 昼休み、微かに魔力の反応を感じて辿ってみると案の定、坊っちゃん――松山先生が煙草を吸っている。場所は初めて会った学校の外れ。さほど煙たくはないから吸い始めと見えた。こんの、不良教師っ、とここぞとばかり詰りつける。
「煙草もそうだけど、外で軽々しく魔法使うとまずいじゃないですか。それもこんな真っ昼間に」
「不良で結構」
 ぷは、と煙と共に答える。冬の息のようだ。ふわふわ浮かんで空気に紛れるそれはこの男そのもので、俺の呆れによる怒声もお小言も全くきいちゃいない。
「俺は別に、教師になりたくてなったわけじゃないからな」
 隠すことはしない。あからさまに眉を顰めただろう俺に何だ? と首を傾げる。
「世の中には教師になりたくてもなれないって人が沢山いるのに」
 なんて不条理な世界なんだろう。重いため息も一緒に出た。
「そういう人らには、まことにあいすいません、ってところだな」
 少しの沈黙を置いて言うものだから何かと思ったけれど、表情は特に変わらない。本気なのか冗談なのか。何となく八割方冗談かも。
「じゃ何で教師になったんです」
「就職先がなかったから」
 身も蓋もない。がく、と肩を下げる俺。
「ニート生活万歳ってばかりにごろごろしてようと思ったら、親父がうるさくてな」
 からかうように煙を吐く。教師免許を取れたと言うことも採用試験に受かったと言うことも信じられない。こんな輩が教師と言う聖職についていていいんだろうか。
(ちょっとでも尊敬の念を抱いたことすら間違いだった気がしてくるぜ、これじゃ)
 イメージを崩すような、知りたくなかったことを知ってしまった。でも、それもまた、この間になぞらえて言うなら現実を受け入れるってことだろう。うんざりしながらも俺は内心しぶしぶ頷く。
 受け入れることが出来るなら、同じくらい確かに言えることが他にもあるからだ。
 事実が何でもかんでも百パーセント、言葉通りと言うわけじゃない。
 静かに見つめてくる俺に何だ? と煙草をくいくい動かす。
「教えてる時の先生……結構楽しそうですけど」
 からかうような煙草の動きが止まる。少し、目を丸くしたようだった。
 印象でしかないけど俺は嘘をついてはいない。前の平岡先生がどんな授業をやっていたか、それが楽しかったかどうか覚えていないくらい――短い間だったから、とも言えるけれど――彼の授業は素直に面白い。ただ問題を解くだけじゃない。俺達の興味をうまく引きつけて、疑問点をわかりやすく解説していく。
 歳が近いから親しみやすさもあるだろうけど、授業の全てが先生の自然だけで成し得たことだとは言い切れない。ちゃんと、授業に向けて先生の方も計画を立てて、何を話しどんな問題を用意するか、じっくり練られているんだと思う。さっきのだらしない、ろくでもなしでしかないような松山坊の姿を考えると、まさか、と思わなくもないけど、全ては内なる努力を隠すためのフェイクなんじゃないかと怪しめるくらいだ。
 勿論、単なる個人の感想。でも、直感は大事だろう。
 その姿。紛れもなくちゃんとした、一人の立派な数学教師だ。
「そうか?」
 けれども、先生の方はふふ、と一つ微笑むだけ。微かなものでもそれは笑みだ。一番大事なことが隠されている笑み。
 先生の方だって、結構楽しくやっているんじゃないか。
 全部が全部、「仕方なく」なんて、思えない。
(はぐらかすようでいて、少し、本心を見せるようでいて)
 まるで風見鶏のよう。もしくは、風に揺れる炎のよう。本当は熱いけど、小さくなったり大きくなったり歪んだり、形は月よりも猫の瞳よりもずっと忙しく変わる。
(なんなんだろうな、この人)
 でも今日は憧れや敬意よりも呆れや怒りが先んじる。二本目の煙草に火がついたからだ。
「煙草」
「うん?」
「おいしい?」
 おいしいから吸っているのだ。当然か。俺より長く生きているのだから。少なくとも。煙草がおいしいと思えるようになるくらい。
「まずい」
 と思ったらこの回答。ずっこける勢いだ。
「何だよそれ」
「吸いたいのかまさか?」
 んなわけない、と声を上げる前にぶーっと噴き出された。
「わっかりやすいなあ。ワルが格好いいとでも思ってるのか、煙草に憧れるなんて今時中学生でもいないぞ」
「なっ! んなこと一言も言ってねえじゃん! ちげーよ!」
「タメ口出てきてよろしいよろしい」
 怒気が噴き出ている頭を気安くぽんぽんと軽く叩くように撫でられてしまう。わかりやすいまでに子供扱いだ。叩くな触んな! そう手を振りあげると猫の喧嘩みたいになる。
「おいしくないのに何で吸ってんのさ」
「早く死にたいから」
 ぷう、と唇を尖らせた矢先だった。尖りは引っ込む。俺は瞬きを一つ。先生は目を閉じて体を満たす煙に全てを委ねている。沈黙が会話になる。でもきっと沈黙しているから、当然、それには中身がない。
(何だよ、それ)
 本当にただの冗談だったら、ただのギャグだよ真面目に考えるなスルーしろよ頭の固い奴だなとすぐさま茶化してくるだろう。俺だってそうするべきだったのかも知れないと思っている。でも出来なかった理由がある。
 この間の、肩の怪我。美禰子がすぐ治してくれたとは言え、魔法の前に痛みがあった。どれほどの痛さかは想像するしかない。絶命に至る程ではなかった。見た目はともかく些細な負傷だ。でも、血は結構出ていた。
 そう、血。
 赤い、赤い、燃え上がるような。
 あるいは闇に堕ちていくような。
 それを見て、この男はどうしていた?
(あの時、少し)
 大袈裟かもしれないけど、僅かに息を飲む。
(笑って、いたんだよな)
 勿論、あんなのはただの心配させまいと言う強がりでしかないし、この先生でなくともよくある話のはずだ。でも、あの笑みに何か含むものなどなかったと、言い切れるだろうか。俺は。
 不気味だった。不吉だった。
 少しだけ鳥肌が背筋を駆けていった。そうじゃなかったか?
(まさか、な)
 ふん。不機嫌な鼻息を一つ置いてこの沈黙の応酬を終わらせる。
「死に憧れるなんて、ばっからしい。そっちの方が中学生みたいじゃないですか」
 ひょっとすると声から強がりが滲み出てはいないだろうか。強がり。それも子供らしい。でもそれでいい。先生と俺は十程も違うんだから、大人の立場から子供の俺をおちょくるように打ち返してくれれば。今はとにかくそれでいいんだ。
 けれどこの男は、そう素直にはいかない。
「うっ、わ」
 突然頭に感じる暖かさ。押し付けられるように、俺は先生に何故か撫でられる。
「ななな、なんだよおっ!」
 ぐい、と犬や猫を相手にするようにちょっと乱暴だけど、きっと親しみは込められている。それが、何だか無性にこそばゆい。いや? と俺の慌てぶりなど見えないのかこの男は至って超然として首を傾げる。
「なーんとなく。三四郎も早く、大人になれればなあと」
 少し、図星を突かれたような答えだ。言って先生は得意げに微笑する。煙草を咥えて、器用なものだ。余計なお世話! と叫ぶと同時に、始業五分前のチャイムがのんびりと響いていった。

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