「やっと坊っちゃんて呼んだか」
「今そんなことどうでもいいでしょうがっ!」
「そうだな、死亡フラグっぽかった」
 がくり、と肩を押さえたまま腰を落とした坊っちゃんに駆け寄る。強がりの微笑を向けられても汗が流れているのがばればれだ。
「タメ口は、まだだもんな」
「もう、笑ってないで!」
 おお、と掌にべとりとついた血糊を見てさすがにぎょっとしたのか、坊っちゃんは声を上げる。俺も息を飲んだ。今まで打撲や掠り傷程度なら負ったけど、ここまで大袈裟な傷は見ていない。闇が濃い中で酸化していく血は余計に黒々と見えて、異常なまでに不気味だ。多分坊っちゃんの羽織っているブルゾンはこの血を吸って、更に渋い赤味を増すんだと思う。
 でも、と息をつく。
(大したこと、なさそうでよかった)
 それでも、もし当たり所が悪かったら――例えば頸動脈に突き刺さって、夥しいほど血が出たら、命の危険だ。体勢からして十分にあり得たその想像に、ついた息を戻しそうになる。坊っちゃんもそのことを思っているのか、掌をじっと見つめたまま軽口を叩かないでいた。
 けれど、俺は見てしまう。光の乏しいこの場所で確かに。
(……え?)
 坊っちゃんの口の端が、僅かに吊り上ったことを。
 負傷した自分への嘲笑? あるいは、皮肉? ほら、こういう時って、どうしてか逆に笑ってしまったりするじゃないか。でも、そんな精神を安定させようとする働きから浮かんだ笑みではない。
 何の当てにもならないけれど、直感がそう教えてくれる。
 そうやって笑う坊っちゃんは初めて会った日の夜を思い出させもする。けれど。
 こんな、夜闇の中だから?
(なん、か)

 不吉。あるいは、不気味。
 そうとしか言えない予感が、俺の中を走って行った。

「坊っちゃん! 大丈夫?」
 事態をようやく確認したらしい美禰子が飛ぶように走ってくる。見たところもう羊は回収してしまったようだ。きっとカンカンに怒っての回収だっただろう。
「死亡フラグっぽいものは立てちまったけどな、大丈夫だ」
「死ぬとか縁起でもないよおっ、今治したげるっ」
 しゃん、と杖を構える美禰子。ふわあっと金色の光が舞う。どこか地上のオーロラめいた光は坊っちゃんの負傷部分を優しく包み込む。大量の蛍が飛んでいるようにも見えた。
「風邪とか病気は無理だけど、外的負傷なら治癒魔法で治せるんだー」
 おお、と目を丸くさせる坊っちゃん。さっきの不吉な、妖しい微笑の気配はもうすっかり無くなっている。
「すごいな美禰子。本当にロープレの魔法使いみたいだ」
「本当は結構難しいし、私も今まで上手く使えなかったんだけど、このストレイシープ回収のお蔭で魔力が温まってるっていうか、なんか漲ってるんだよねえ」
 お肌も心なしかつやつやだよ、と頬を撫でる美禰子に何がつやつやだか、と軽く笑っておいた。でも、笑っている場合じゃない。坊っちゃんの怪我も治り、羊の回収も終わって、俺に残されている課題はしかし前進も後進もしていないのだった。
(俺……もっと頑張らなきゃ)
 消火はしてたけど、ほとんど見ていただけだった。最後の攻撃から咄嗟に美禰子を守ることは出来たけど、かえって坊っちゃんを傷付けることになった。美禰子もワガハイも坊っちゃんもそうは言わないけど、俺自身が一番わかる。格好悪い。
(何が出来るか、なんて)
 何かが出来るようになってからだ。沈黙を貫くような掌は、随分小さく見える。
 その掌の向こう側、美禰子に介抱されている坊っちゃんが不意に微笑する。穏やかで神秘的な光の中だと言うのに、俺の焦りを見越した嫌味なものに見えた。単に、余計なバイアスが掛かっているだけだろうけど。
(ふん、だ)
 削がれる自信が頼るのはただ一つ、最初の夜の魔法だけだ。あの時は、まさに逆転の勢いでどおんと放てたのだ(尤も、美禰子の魔力でキャンセル扱いされたのだけど)一度出来たことならまたやれるはずだ。
(魔法使いのキャリアとしては、俺の方が先輩だし?)
 ふんだふんだ、とまた内心で鼻を鳴らす。心なしか唇も尖る。冷静に俯瞰して見れば、そうした俺の言動のなんと子供っぽいことよ。何考えてるんだか、と頭を抱えるのすら煩わしい。
(これこそ、マジ格好悪い)
 小さな掌の方が俺を見つめ返してくるような気がした。そしてそのまま自己嫌悪の渦に巻き込もうとしている。そんな気もした。やめやめ、そう一人手を振る。過去にばっかりしがみついてもられない。少しでも良くなりたいなら、練習あるのみだ。ワガハイ、よろしく、俺は頑張る、と老猫の方を見る。わかっているのかいないのか、彼は尻尾の先をちょい、と上げて見せた。
 下ろした掌に、何故か少しだけ魔力の熱を感じたような気がしたけれど、多分気の所為だろう。

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