ワガハイの歩みはのんびりとしていた。それでも足取りは的確で、気まぐれで歩いているとは思えない。いつも巡回しているところ、言わばワガハイのテリトリーなのだろう。お母さんに手を引かれて歩いている子供に手を伸ばされても知らん顔、散歩中の犬に吠えられても我関せず、あくまでマイペースに歩いていくところはどこかあの坊っちゃん先生に似たものがあるように思えた。
 あちこち匂いを嗅いだり、自分も軽くマーキングして段々巡回も終わりかな、次はどこに行くのかなと思えば何てことはない、普通の民家であった。それも一軒二軒ではなくて五、六軒以上なのだから、これも気まぐれじゃなく、やはり巡回先なのだ。その証拠にいろんな名前で呼ばれていた。チロ、フワフワ、マル、フーちゃん、ポン、その他いろいろ。その中にワガハイと言う変てこな名前はなかった。
 それにしても、と俺が思わず渋面を作ってしまうのは、その家々でのワガハイの態度である。
「お前、あんな風にごろんとして腹見せることなんて、ウチじゃやってねえじゃんかよ」
 怪しまれないように携帯で通話している振りをしながら前を行くワガハイに話しかける。
「にゃあにゃあ甘ったるく鳴くこともねえし」
 そう。人懐っこい猫そのままに、ワガハイは訪れる先々で見事に媚を売っていたのである。普段はどこか孤高を貫く謎多き猫なのに、これじゃイメージ丸崩れである。いや、崩れてどうなるわけでもないのだけど。あまりに違い過ぎ、なおかつワガハイが恥ずかしがることも無く堂々としているから、からかうことも出来やしない。このドラ猫、と忌々しく見る程度だ。
「猫が猫被ってどうするよ」
「いいじゃろ。第一、吾輩は魔法使いである前に」
 くるん、と尻尾を揺らして振り返って言うことは。
「吾輩は猫である」
 名前はまだない。
 微かに笑ったように髭を揺らし付け加える。妙な余韻を押し付けられた俺は呆然と佇むだけで、やはりそんな俺に構わずワガハイは道をなお進んだ。何だよそれ、と携帯をしまった。名前がないどころか、先々でいろんな名前を持ってるくせに。
「勝手に言ってろよ、ったく」
 きっとそのまま進んでいくんだろうと思っていたけど、数歩先にいるワガハイは腰を下ろしていた。どうやら俺がついてくるのを待っているようだった。
 別に腹が立ってるわけでもないし、特別な用事もなく、行きたいところがあるわけでもない。俺とワガハイの散歩は無言で続いた。


 ワガハイが歩む道は、いかにも野良猫が通るような路地裏や塀の上、狭苦しい家々の間ではなく、あくまで俺が通れるくらいの、不自然でなく歩きやすい道だった。はっきり言わないけど、俺の為に道を選んでくれているのだと思うと嬉しくなる。
 にゃあ、と猫の鳴き声がする。ワガハイのものではない。見ると、前方からゆったりとした足取りで一匹のキジトラの猫が向かって来ていた。多分ワガハイに挨拶でもしたんだろうか。にゃあ、と声はなくもそう取れる感じで口を開くワガハイ。微妙な間を置くでもなく、そのまますたすた通り過ぎる。猫は俺に興味はないらしく、ちょっと見ただけですぐに顔を背けた。
(何話したんだろうなあ)
 去っていくキジトラを見送っていると歩みが止まってしまっていた。やっぱりワガハイは待っていて、ごめんごめんとすぐ追いつく。やれやれと言った態で髭を揺らす。多分溜息だ。
「何だよ」
「ほれ」
 しゃらん、と綺麗な音が鳴ったかも知れない。ワガハイが俺に向かって尻尾を一振りすると、銀色の光が細かい雪の粒のように辺りに散らばって、すぐ消えた。
「え? 今の何?」
 魔法みたいだったと言いかけてやめる。こいつは魔法使い。なら、今のは当然魔法だ。一体何したんだ、と追いかけて、俺は耳を疑った。
「おお、先生じゃねえか。ちわっす」
 辺りに俺以外の人はいない。いるのは老猫と、もう一匹、車のボンネットの下から出てきた茶トラの猫。うーんと伸びをして、あくびを一つ。
「ごきげんよう。昼寝か」
「んああ、そろそろ晩飯の用意が始まる頃だからよ」
 まだ寝てたいんだけど行かねえと食いっぱぐれちまうし、と耳を器用に掻くこの猫こそが、声の主。俺の存在に気付き、んだよ、と言った風に鋭い目で見てくる。
「ね」
 ワガハイの時もこうやって驚いていた気がする。
「猫が、しゃべっ」
 阿呆、と靴の上に感じる重み。ワガハイが前足を載せていた。
「何だこいつ? 先生の知り合い?」
「吾輩が面倒見とる小僧じゃ」
「な、何が面倒見とる、だよ」
 世話してんのはこっちだろ、と人気がないことをいいことに思いっきり怒鳴ってしまった。ぷっ、と茶トラに笑われる。笑うと言う動作は人間にしか出来ないと言われているし、見た感じ笑ったわけではないのかも知れないけど、俺が聞いたのは確かに笑いの音だった。
 茶トラもキジトラと同じように俺にはさほど興味を持たず、話に出ていた晩飯を貰おうとしてか、挨拶もそこそこにのそのそと歩いて行った。
「さっきの、猫の言葉がわかる魔法?」
 ワガハイは答えない。でもそうとしか思えない。ありがとな、とはにかんで伝えるとくいくいっと意味ありげに尻尾を揺らした。
「なんか、いいな。超ファンタジーって感じ」
 むしろメルヘンかも知れない。動物の言葉がわかるなんて、まさに絵本の世界そのものだった。
「それにしてもよ」
 さっきよりは少し通りにくい道を行く。人気もほとんど無くなって、俺は直にワガハイに声を掛けていた。
「先生、なんて呼ばれてんだ。ワガハイ」
 こいつが何歳なのか未だにわからないけど、長老やご隠居さん的なニュアンスだと思う。先生、と言うと思い当たるのは当然あの坊っちゃんこと松山先生のことで、この一匹と一人の魔法使い、ますます雰囲気が通じる。
「昔、吾輩の主人が教師をしておってな」
「俺の爺さん、先生なんてしてたっけ」
「お前の祖父ではない」
 どこかぴしゃりと言うワガハイ。俺はむうと黙り込む。
 教師をしていた前の主人。俺の祖父より前にワガハイの面倒を見ていた人だろうか。俺の祖父の後、かも知れないけどどうもそうは思えない。前も思ったけれど、一体何年前からここいらの猫として暮らしているのだろう。いや、何年どころ、じゃない。ひょっとすると、何十年も前からかも知れないと思うと、少しぞっとする。ワガハイと再会したあの日、ちっとも面影が変わってなかった時のように。
「その時も吾輩は名前を持ってはおらなんだ。近所の猫は、先生の家の猫と言うことで吾輩のことを先生と呼ぶようになった。それが今でも続いておるだけじゃ」
 そっか、と答えることしか出来ない。続き過ぎておるところもあるがの、とぼんやり宙を見つめてワガハイは薄暗くなりつつある道をますます進んだ。
 ワガハにとって先生と言う呼び名は、かつての飼い主を思い出す形見でもあるのかも知れない。道々行き会った猫にも親しげに先生、先生と呼ばれるワガハイは心なしか嬉しそうだった。

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