ストレイシープに関して、何かわかったことや、目撃情報を入手したら連絡するように先生に頼む。まさか教師とアドレス交換することになるとは思わなかった。
 外はすっかり夜のとばりが下りて、近所は宵の徒然を楽しそうに、暖かに過ごしている。ぽつぽつ星灯りが吊るされた夜空を見上げていると、空腹なことに急に気が付いた。が、美禰子は自らと俺の空腹に気付かないように先生と話をしていた。既に坊っちゃん呼びをしている辺り、随分打ち解けている。美禰子はきっと誰とでもすぐ仲良くなれる奴なんだろう。見た目からしてそんな感じだ。
 話はどうも初等数学の話や教師は楽しいかという内容だったが、こんな話題となる。
「それにしても、坊っちゃんはあんなに魔法すいすい使えててすごいよね。元から素質が十分にあったんだろうねえ」
 そうか? と先生は禁煙パイポらしきものをくわえた口をもごもご動かす。昼間、先生は少量とはいえ指先から炎を出していた。だけど使った後の様子は、疲れなど微塵も感じさせなかった。いやむしろ、そんな事実など無かったと言わんばかりだった。
「疲れなんて最近は全く感じないぞ」
 非日常を日常に組み込んだということは、魔法に対してそれだけ力がついていることと同義。
「ほうほう。なかなか、かっこいいじゃないか」
 それに比べて、とぼやき忌々しそうにこちらを見るのはワガハイだった。この三人と一匹の中で魔法が全然使えないのは誰かなんて、言うまでもない。一気に浮上してしまった俺のこの居たたまれなさは、そうそう体感できるものではなく、たちまち無言になってしまった。
「三四郎も頑張れば出来るようになるよ」
 美禰子のフォローが逆に痛い。
「お前は不真面目にも帰宅部なんだから、ちょうどいいではないか。吾輩が特訓してやろう」
「何が悲しくて猫に教えをこわなきゃなんねーんだよ」
 口ではそう言ったものの、確かに、魔法が俺に宿ったという僥倖をモノにしなければ宝の持ち腐れである。それが宝かどうかというと疑問ではあるが。
「ま、頑張るんだな」
 先生は微笑んだ。大人の、余裕のある笑みだった。





 時間も時間だったので夕食を一緒にしていかないかと玄関を出ていく先生を誘ったけど、ゆっくり団欒を過ごせと微笑された。
「若い者同士で、な」
「だからそんなんじゃないって」
 第一先生だって若いじゃん、と口を尖らせるとちっちっちっ、と勿体ぶって指を振る。
「先生じゃない。坊っちゃん、だ」
 妙なこだわりだな、と汗を流す俺。変な名前なのを気にして、あえてあだ名にしているのかも知れない。
 車庫まで僅かな距離しかない。行きの車中のようにまた微妙に気まずい空気になるのかなと思っていたから早く行ってしまいたかったけれど、先生の足取りは緩慢だった。と言うかほとんど動いていない。俺の方が先に前に出てしまった。先生? と振り返る。
「三四郎」
 苗字ではなく名前で呼ばれる。学校の先生に名前の方で呼ばれることなんて、今まであっただろうか。
「お前は、誰かにこの現実を否定して欲しかったんじゃない」
 またその話? そう、俺は声なく首を傾げた。けれど、そのまま黙って言葉の続きを待つ。
 俺も気付けなかったことがその先にある気がした。
「誰か、自分以外の別の人に、認めてもらいたかった」
 一つ、瞬く。そう言われればそんなような気もするし、そうでない気もする。半々の気持ちで、ただ見つめ返すことしか出来ない。そうじゃないのか? と先生も俺のように首を傾げた。少なくとも俺はそう見えていたぞ、と言う風に。
「いくらなんでも、一人で抱えるには荷が勝ち過ぎてる。お前の直面してる現実はな」
 考えてみれば先生は、美禰子やワガハイじゃない、初めてのFの第三者だったのだ。俺の「今」が、初めて客観的に見られ、判断される。まやかしでない、現実の瞳で。
 待っていたのは今が残酷なまでに「今」である真実だったけれど、それはしょうがない。先生の言う通り、否定のしようがないんだ。
(誰か……)
 先生の言葉は、俺がいつか寝床でぼんやり考えていたことを呼び起こす。
 そう。俺は誰かに導いて欲しかった。俺以外の頼れる人がいてくれたら、俺はどんなに安心するかと思っていたんだ。でも、俺はずっとずっと独りだと思っていたから、そんな儚い願い事は夢に溶かしてしまった。
 その溶かした想いが今、現実となってここに在る。
(先生が頼れるかどうかは、よくわかんないけど)
 確かに捉えどころのない変な人ではある。常識もやや欠けているかも知れない。でも俺よりも年上で、俺よりも魔法が上手く使える。浮かべる微笑は、見ていてどこか安心出来る。
 何より、現実を受け入れている。俺が無様に否定して足掻いていたものを、いとも簡単に。
 ようやく先生は前を歩きだす。その広い背中を見ていると、俺の中に何かが灯ったような気がした。
 名前をつけるなら、それは何だろう。
「まあ」
 その名前に気付く前に、先生はぼりぼり頭を掻いた。
「あんなこと言っておいてそれかよ、って突っ込まれそうだけど」
 振り返る先生に俺はまたしても首を傾げた。
「現実を受け入れたくない気持ちも、わからんでもないさ」
 俺はやっぱり瞬いた。眉根を寄せる。
「矛盾してんじゃん」
 せっかく辿り着いた俺の到達点ががらがら音を立てて崩れかけるところだった。だからそれかよって言ったろ、と肩を竦める先生。
「第一矛盾はしてない。俺はこの魔法を使える現実は肯定してる。一般論の話をしてるんだよ、今は」
 がりがり、と鬱陶しそうに頭を掻いた。
「さっきは格好よく言ったけど、だいたい、あるがままを受け入れられるようになるまで、それなりに経験とかが必要になるからな。高校一年のお前には、やっぱり荷が重過ぎるよ」
 物事には二つの見方がある、と言うことを先生は言いたいのかも知れない。賛成派と反対派が分かれるようなものだろうか。
「何より」
 先生は虚空を見つめる。
「否定したい現実の方が、世の中には多過ぎる」
 言葉は静かな庭を静かに揺らす。先生は動かず、俺も動かないでただ彼の横顔を見ていた。
 その眼差しは遠い。
(それは、例えば世界情勢とか、今後の社会の不安とか……)
 そう言うものだろうか、と一人思う。新聞を開けば悲惨な出来事や目を背けたいことが山ほど載っている。けれど、ゆるりと心中で頭を振る。
(違う、かな)
 先生は未だ遠い眼差しを捨てていなかった。春の夜風が優しく吹く。月明かりも少し強くて、俺は一枚の絵を前にしているような気がしてきた。よく見ると先生が非常に美形な顔立ちをしている所為もあるかも知れない。

 彼が見つめる何かは、世界でも社会でもない。
 個人的な何か。
 人に話せない、思い出。

「ま、お前もその内わかるさ」
 もうわかってるか、と不意にその眼差しを解いて、また飄々と前を向いてゆったり進んでいった。俺も坊っちゃんも、進む先が苦しい現実だと言うことはわかっている。俺はまだ子供だから甘い考えだけど、坊っちゃんはそうでもない。何度もそんな現実に直面しているから、この先に甘いことなんかないと身構えているはずだ。覚悟があるはずだ。
 それでも逃げたりしない。前を向いて歩いていく。そう、体の表す通り、前向きに。
 まごうことなき大人の姿。
 先を行き、先を生きる。
 文字通り、先生そのものである姿。
(俺は、まだ)
 前を行く彼に心の中で呟く。独り言のようなものだ。
(言ってみれば、それこそ俺の方が、甘ちゃんの坊っちゃん、だけど)
 名前が坊でも、先生は坊っちゃんなんかじゃない。
(俺も、大人になれば)
 あんな風になれるだろうか。
(大人に、なれば)
 この恋を、想いを。
 悲しいと思わずに、諦められるだろうか。
 どんな結末になっても、納得して受け入れられるだろうか。
(大人に、なれれば)
 美禰子はそんな俺のことを、少しはいいな、と思ってくれるだろうか。
(今はまだ、坊っちゃんのまま、だけど)
 恋愛の対象と見られなくてもいい。そんなことになったら、美禰子の方が苦しむ。
 でも、何だか、いいなと、そう思って欲しい。
 かっこいい。優しい。何でもいい。
(まだまだ、遠いけど)
 魔法も全然使えない。美禰子みたいに立派な使命もない。
 でも、まだ始まったばかりだ。こうして、と俺は車に乗り込む先生を見た。
 こうして、仲間も出来たことだし。
「何だにやにや笑って」
「笑ってました?」
 まあいいけど、と乗り込むなり先生は早速煙草を咥える。
「予習復習、忘れんなよ」
「先生も、学校で煙草は控えてくださいね」
 はいはい、と片手を挙げるだけで返事として、颯爽と先生は春の夜にエンジンを吹かしていった。

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