日がもうすぐ沈む。油のようにねっとりとしたオレンジの太陽光が、ちょうど後部座席の窓を照らしていて、眩しかった。
 俺は今、松山先生――坊っちゃん先生の車に乗っている。車内はラジオが音量小さめに流れているだけで、先生は一言も喋らない。気まずいことこの上ない。今更ながら、別に俺の家にまで来てもらわなくても良かったかもしれないと、後悔に似た何かを感じる。でも、魔法とか、喋る猫とか、人に聞かれたら困らないのかと訊かれると何も言えない。
 家に着いた。祖父はあまり車に乗っていた印象は無いけど、車庫があったのは幸運と言えよう。しかし俺も存在を半ば忘れていたし、車なんて乗らないから掃除なんて勿論していない。長年の埃と汚さが忘却の一角を演出している。
「すみません、汚くて」
「いや、いいさ。どうせ春だし、黄砂でいくらでも汚れるんだ」
 外に出しておくよりも断然マシさ、と先生は車のドアを閉めた。俺は先頭を行き玄関まで歩く。いつも辿らない道筋だったから、空も木々も石畳も壁もどこか変に見えたのは、先生を引き連れているのもあるからだろうか。
 玄関を上がると、おかえりーと美禰子の声が遠くからした。台所にいたらしく、エプロンを引っかけ、スリッパをパタパタ言わせながら駆けてくる。その記号だけ取れば主婦そのものだ。
「って」
 俺の隣の人物を見て一度瞬き。思った通り美禰子はあれ? と首を傾げている。ここに先生を連れて来ることはさすがに予想外だったのだ。俺も何をどう言ったものか、思わず美禰子と同じように先生を見るけど、先生はにやにや笑っていた。首を傾げてしまうが、大体何が言いたいのか数秒も経たずにわかってしまう。俺の顔は瞬時に渋面を作っただろう。
 ふうん、と無駄に間延びされた声。余計に煩わしい。
「こんな年から同棲か?」
 ちらりと投げられた視線とその目の形は、からかい要素満点だ。
「しかも昼休みに男子校の敷地内でちちくりあってるとは」
 ちっ? と調子の外れた声を思わず上げてしまう。そうだろうよ、と眉を上げる先生。
「ませた高校生がいたもんだあな」
「なっ、ちがっ! 違います!」
 赤面を感じながらも隠すことなんて出来やしない。怒るのが先だ。
「そうですよー、三四郎と私はそんなんじゃないもん」
 違いますよう、と手を振る美禰子の顔はすこぶる朗らかだった。当たり前のことだけど、美禰子にここまで全力で否定されるとは思ってなかった。貞淑な妻ぶりは評価出来るけど、さすがにこたえる。貞淑かどうかはさておき、夫一筋なのは確か。
「ね、三四郎?」
「そうですよ」
 うんうん頷く俺だけど、その頷きの中に美禰子に対する呆れや疲れが含まれてるのに、美禰子は気付いているんだろうか。美禰子だけじゃなくて、先生に対してもだけど。
 美禰子の後ろから時機を伺ったようにワガハイがするりと現れた。さすがにいきなり人語を喋ろうとはしない。こいつは十分わきまえている。ただ鼻をひくひくさせていた。
 俺はとにかく、先生を居間に上げた。






 美禰子が茶菓子とお茶を持ってくるまで、俺は先生と向かい合って座っていた。先生はいいところに住んでるな、と内装を見たり家具を見たりしていたが、これと言って深くは話し込まなかった。
「一人暮らしか」
「はい」
「おっと違った、同棲か」
「だから違いますって」
 こんなからかいがあったくらいで、何も知らない黄金色の空の光に照らされて、ただ時計の針の音だけが二人の間を埋めていた。先生は、居候か、とお茶の準備をしている美禰子を見てぽつりと言った。多分独り言だろう。俺はそれに声なく頷いた。
 やがて美禰子とワガハイも机を囲む。各辺に一人ずつ座って、しかし誰も何も切り出さない。お茶の湯気が無駄に流れていくだけだ。
 場の責任者はきっと俺。単刀直入に切り出した方がいいだろう。
「あの、先生」
 息を一つ飲む。
「信じて、もらえないかもしれないけど」
 俺はここに越してきてから何があったか、なるべく詳しく語った。足りない部分や相槌を美禰子が担当する。ワガハイは喋る猫と紹介されてから、ちらちら先生を見ながら言葉を零すようになっていた。さすがの彼も動物が喋るのには驚いたようで、じろじろワガハイを見ていた。ワガハイは視線を気にしてか、前足をまとめ身を丸めていた。鬱陶しい、とその身は語る。そして美禰子が既婚者であることにも十分驚き、目を丸くしていた。まあ、彼女の外見からしてみれば仕方ないだろう。
 あらかた全てを話し終わって、俺は茶を飲み一息ついた。今日美禰子から教えてもらったFとfのこと、魔法のこと、研究所のあれこれについては語らなかった。そこまで話しているとどんどん間延びしていくし、今の状況でそれは必ずしも必要な情報じゃない。さっきの話の途中、魔法が体に負荷をかけることについては美禰子が少し説明してしまったのもある。
 それにしても、と軽く息をつく。昨日まで顔も名前も知らなかった赤の他人に語ることで振り返ってみると、やっぱりにわかには信じられない。夢のような、お伽噺のようなことに全身を浸している自分の存在自体が嘘のように思えてきた。だからと言って、何をするわけでもないけれど。
 先生の方は何かを考えるように――ひょっとしたら何も考えてないのかもしれないけど――顎を撫でていた。猫が喋ることに驚いているのだ。けど、自分の魔法に特に疑問を感じている様子はなかった。どこからが彼の驚愕に値するんだろう。その線引きは、俺には見当もつかなかった。でも、と俺は一人、冷静に彼を見つめた。
 先生は数学教師だ。魔法なんて言う非現実なモノと対極にあるのは多分物理学だろうけれど、数学だって似たようなものだろう。自分の教える学科に誇りを持っているかはともかくとして、本当は否定する立場にいるはずだ。
(こんなこと、考えてるなんてな)
 俺の中の俺。冷静に、己自身も含めた現実を分析する俺の言葉がぽつり、と聞こえる。
 そう。俺はその呟きに密かに頷く。自分自身のことだから、よくわかってる。
 つまり。
(俺はまだ魔法を疑って、否定してるんだ)
 あれだけ非日常を体験してるのに? 頭がそれに疑問を投げかける。魔法だって、かなりしょぼいけど、使えるのに?
 だって、しょうがない。全てを受け入れるには俺はまだまだ子供過ぎる。大体、大人だったらまず否定する。そんなファンタジーはもうこの世に存在しないんだから。科学の統べるこの世界で、そんな。魔法なんて、ありえない。
 こんな現実、おかしいと思わない方がどうかしてるんだ。
(でも)
 心中で大人ぶってせせら笑う俺に投げかけられる、疑問の声。
(本当に理由はそれだけか?)
 笑いが止まる。
 本当のところ、そんなのは建前でしかないだろう? 声なく言葉が染み渡る。俺が受け入れられないことはもっと別の何かだ。
 ああ、そうだ。それは知りたくなかったもの、でもある。けれど知らないままでいたらもっと苦しかったもの。もっと恥を晒してしまうようなもの。魔法なんてものが存在する現実よりもっとありえないものを、俺は否定したい。
 静かに俺が、俺を揺さぶる。くらり、と揺れる俺の目が捉えたものは、傍らの小柄な存在。
 俺は美禰子を見ていた。
 きっと、何らかの答えが出る。出てしまう。
 気付きたくなかったものが、生まれる。
 いや、もう。
 とっくに、気付いていたものが、再び。
「そういうことか」
 思わず瞬く。視界を直せば、俺の向こうに先生がいる。
「なるほど」
 先生の声がそれを、現実を暴こうとする動きを遮った。のんびり顎を撫でている。髭は綺麗にそられていて、見た目つるりとしていた。
「面白い話もあったもんだな」
 その答えを予想していなかったわけではない。いや、むしろそう返って来るのが妥当なところだとさえ思っていた。だって彼は普通に魔法を使う。もう非日常を完全に日常にしてしまっている。分けることなどしない。
「何で」
 それが羨ましいのだろうか。
「何でですか」
 俺はそれが出来ないから?
「何で、こんな突拍子もないこと、信じちゃうんですか、先生は!」
「坊っちゃんと呼べ」
「知るか! って……ごめんなさい」
 身を乗り出して、かなり近寄って怒鳴ったにも関わらず、タメ口でもいいぞと無表情にしれっと言ってのけた。勢いが削がれて、何を言うべきか口を開いたものの言葉にならない。そもそも、この人に何を言っても暖簾に腕押しのような気がした。
 美禰子は目をぱちぱちさせていて、ワガハイはじっとして動かない。どちらも静かに動向を見守っている。
「なめられ……るよ、先生」
 まだ坊っちゃんと気安く呼べはしない。おずおず敬語を少し崩すくらいだ。
「でも、どうして」
 身を引きながらどこか恐る恐る、俺は先生を見やる。
「何で魔法だとか、別の世界だとか、そんな非現実的なこと信じられるんですか」
 そう。彼は魔法の世界と真っ向対立するところにいるはずだ。
「だって先生、数学教師だろ!」
 僅かに残る理性がそう叫んで、俺の口を飛び出ていく。俺の中のFが暴発、膨張して、僅かなfを――幻想を感じ取り映し出し生み出す繊細な欠片を、奪っていく。
 先生はそんな俺を宥めなかった。表情は、面白いと言った時に浮かべた微笑みのそれだ。その所為で、せっかく勢いを取り戻したのにどう動けばいいか途端に分からなくなってしまった。その機を捕まえて彼は言う。
「数学も魔法みたいなもんだろ」
 やはりしれっと、何てことないように言う。首を傾げさえもする。まるで俺が、おかしいと言わんばかりに。
「必要なものは紙とペンだけだ。紙の余白は十分にとっておかないといけない」
 そうじゃないと成功しない「魔法」だってあるからな、と坊っちゃんは平然と、楽しそうに続ける。
「どういうことですか」
「じゃあ、仮にこんな設定で」
 そう言うと茶菓子の盆から饅頭をいくつか並べて俺の方によこした。
「牛込、お前は小学校や教育番組みたいに、リンゴが幾つとかみかんが幾つとか、今ここに並べたように饅頭が幾つとか、何か具体的なものを以てでないと計算が出来ないことにしよう。俺は普通に頭の中で、紙面上で、計算が出来ることにする。さて、どっちが便利で、速いと思う? どっちが大量計算をこなせる?」
「そんなの……」
 言い淀むこともない。後者に決まっている。でもそれで数学を「魔法」というのは、いささか詭弁に過ぎる。いつのまにか、横から美禰子が手を伸ばしてその饅頭を取り、美味しいと言いながら食べていた。不満そうだなと眉を反らして笑うが、いかにもあしらわれたような気がする。
「十の十八乗とか、一般に天文学的数字と言われている値の計算を、お前は現実に、おままごとのようにものを使って出来るか?」
「出来るわけないでしょう」
「それが扱えるのは、いや、扱うのは数学や物理学じゃないか」
 魔法と対極の存在だ。だから? と俺は首を傾げる。どこか苛立たしげに見えただろう。まだ不満そうなのな、と返す先生は俺のそんな調子などまるでどこ吹く風とばかりに余裕があった。当然か。生徒と先生なのだし。
「自然界に存在しない虚数も、無理数をむりくり表すルートやπも、魔法以外の何だって言うんだ?」
 言って先生は並べた饅頭の一つを取っておもむろに食べ始めた。
「他にも、科学のあらゆる分野では、専門外から見たらとても信じられない、それこそ魔法のような出来事を本気で、毎日当たり前のように取り扱ってるんだぜ」
 数学だってそうだろ、と口をもぐもぐさせる先生。
「他にも化学も物理も地学も生物も。高校で扱うものでだってそうなんだ」
 嚥下し、お茶を一杯。見るからに満足そうだった。俺は黙り込んだまま、お茶も饅頭にも手をつけない。先生の言葉を待った。余裕溢れる先生をただ見ていた。
「お前らはよく、数学なんて勉強して何になるんだ、って言うよな」
 少し目を逸らして気持ち浅く頷いた。特別数学が苦手と言うわけじゃないけど、勉強を放棄したくなる時は誰だってそう思う。
「進路によっては果てしなく無用の長物だし、向こう側の世界の話に見えるだろうな。ぶっちゃけてしまうと俺もそう思う」
 教師の言う言葉じゃないだろ、と言いたげだな。そう言葉なしに俺をくい、と顎で指す。
「でも数学は――あらゆる公式や、難解な証明問題はこの世に存在している。気付かなければ一生気付かない。でもそれはちゃんと存在してる。俺がいてもいなくても。言ってみれば、誰も知らないけど、誰もが知ってる。誰もが知っているけど、誰も知らない」
「何だそれ。言葉遊びですか」
 かもな。そう、やや上を向いてふう、と先生は息をつく。何が見えているんだろうか、この俺を翻弄するような大人には。
「極めたい奴だけが手を出せる魔法だ」
 すぐに視線は戻される。
「そんなものなくたって生きていけるけど、それがなかったらわからないことだって、いろいろあったんだぜ。数学も物理も。何も理系だけに限らねえ。文学も、歴史学もだ」
 腕を組んで、先生は俺を見つめてくる。笑ってるわけではないのだろうけど、笑っているように見える。
「それらが、この世界に完全に不必要だと言い切るのは、どうなんだろうな」
 向こう側。別の世界。
 けれども、この世界に必要なもの。なくなってしまえば、世界はきっと崩壊する。
「先生は思う。さすがに、短慮が過ぎるんじゃないかってな」
 似たような話を、俺は今日、どこかで聞いたような気がした。
「あるSF作家の言葉だったっけな。高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」
 よく言われる言葉だよ。鼻息一つゆったりとついて、先生は話に区切りをつけた。場は急にしんとした。春の寒気が、やけに肌につく。
「現実として、だ」
 しんとした空気を揺らす、先生の声。
「魔法のような現象がそこに在る以上、俺が見てしまっている以上、そして使ってしまってる以上、それは現実だ。否定するも信じないも何もない。現実にあるんだ。否定のしようがない。それで、それは魔法だって面と向かって言われたら、尚更信じるしかない」
 笑ってはいない。穏やかな表情ではあった。マイペースな人柄に惑わされているけど、この人はちゃんと「先生」なんだ。まあ騙されやすい人間とか言われそうだけどな、と少しだけ笑った。
「大体、否定したところでどこに行き着く?」
 同じ言葉を告げる俺の中の俺は、嘲笑めいたものを浮かべているかもしれない。
「所詮その場しのぎの自己満足でしかない。麻薬よりしょうもない。余計どん詰まりだぞ。呪いを自分の中に溜め込んでいくようなものだ」
 そうやって濁っていく。身動きが取れなくなる。心も体も荒んでいく。
「現実には」
 黙り込んだ俺は、受け入れるしかないと悟った。
「そこにある真実には誰も勝てない」
 心中で、認めるしかないと笑った。
 猫が喋ることも、魔法があって、使えることも、人が無数の羊になったことも。
 美禰子のことも。

 もう誰か、決まった人がいる、彼女のことを。

「三四郎、大丈夫?」
 はっとする。誰でもない、その美禰子の声は、寒々とした居間に凛と聞こえた。俺の顔は彼女にどう見えていたんだろう。
「あるがままの現実を受け入れる。俺は、それが大人の姿だと思うぞ」
 ワガハイと同じことを言った。とどめの一言は、黙り込んで動くことも出来なかった俺を十分に頷かせる。受け入れきれなかった現実が体に馴染んでいく。まるで長い夢から醒めたかのようだった。
 結局は、この現実と向き合っていかなければならないのだ。猫が喋り、もう一つの世界があり、魔法がある現実を。
 人のものである誰かを、好きになってしまった現実を。
「吾輩も似たようなことを以前言ったが、まだわかっておらんかったか」
「そんなもんさ」
 俺に向けられた言葉なのに先生が返事する。やれやれと首を振りながらわかったよ、と俺はどこか溜息交じりで言うしかなかった。美禰子は何を言うべきか迷っているのか、不思議と黙っていた。ただ申し訳程度に苦笑が浮かんではいた。
「努力、するさ」
 変化してしまった現実には、半月近く経つ今もはや慣れてしまった。美禰子への想いのことはさておき、今を評価するなら決して悪くはない。
 プリズンだ何だと騒いで男子校を嘆いていた与次郎達とあんまり変わらない。俺は、浮かんでくる苦笑を噛み殺すことにした。

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