ただ俺はぽかんとしてその教師らしき男を見つめることしか出来なかった。美禰子も息をひそめるように大人しくして男を見つめていた。少々首を傾げている。Fの人間かfの人間か、はかり兼ねているらしい。当事者の男はそんな俺達を無視し、(多分)教師という立派な身分の大人なのに平然と煙草を吸い続けていた。マイペース、と心の中で呟く。大体、学校の敷地内は禁煙だ。教師とあろうものがどうかしてる。
「どうした?」
 俺の内なる咎めが聞こえたのか、しかし男はさっきとちっとも変わらない雰囲気で俺に呼びかける。あくまで平凡な日常が続いている風に。俺は少し顎を引く。
「どうした、って」
 学校内は禁煙です、と言うことを言いたいのでは無い。わざわざ魔力を追って来てまでそんなことを言うとは何のギャグか。ようやく用意された言葉が言える。意を決したように、軽く鼻から息を抜いて。
「あの、あなたの、その……火を出した、それ」
 魔法はもう終わってしまったから指さすことが出来ない。俺の指は間抜けに空中を指し、それはつまり彼を指さすことになる。彼はそれを聞いて、俺達が何を目的としてここでぼけっと立っていたことに気付いたようで、微笑んだ。いくらなんでも状況判断が遅いんじゃないのか。
「ああ、この術か?」
 術。少々文語めいている。しかし手品でもない以上、その名称は適当かもしれない。
「最近、使えるようになった。この頃はどこに行っても禁煙だろう? ライターを持っているだけでも白い目だ」
 だからこいつはちょうどいい、と指を振る。炎が出るかと身構えたが振りだけだ。辺りにくゆる紫煙は十分に煙たいと言え、彼がそれなりの喫煙家だと推測出来る。彼の言う通り、ここ数年ですっかり禁煙が王道になってしまったから、喫煙者が目の敵にされている事情を一応は察する。
 そう。理解する。けれど。
(少しはその術を疑問に思わねえのかよ)
 声に出していたなら喚いたかも知れない。ワガハイはあるがままを受け入れるのが大人と言った。しかし物事を疑い、考え、真実を見極めることもまた大人だと思う。社会的に言えば、大人のスキルとしては後者の方が求められる気がする。
 規範は常識だ。常識外れをおかしいとする。だから、と俺は密かに歯噛みする。
(魔法なんて、もってのほかなんだ)
 多分教師だろ、あんた、と軽く呆れを込めて相手を見やるけどどこ吹く風で、気持ちよさそうに煙草を吸っていた。未成年には禁じられているからこそ、その動きは否応なく大人に見える。この人は現実を受け入れることの出来る大人なんだ。
(今更むきになってこんなこと思ってるなんて……やっぱり俺は魔法を受け入れてないってことになるのか)
 俺はワガハイの言う大人では無い。魔法の使えない大人だ。真っ当な世界の住人。定義が支配するFの世界の存在だ。そもそも大人ですらない。まだ子供だ。十六歳にもなってないんだ。
 隣にいる美禰子を見る。美禰子は難しい顔をして未だ黙っていた。
(俺は)
 密かに呼吸の裏で自分自身に問う。
(俺はどうなんだ)
 俺は、どちらの「大人」を選択する?
 美禰子といられる大人か、そうでない大人か。
煮え切らない俺の耳にチャイムが届く。腕時計を見ると、時刻はもう五時間目五分前だった。教師らしき男はまだ煙草を吸い続けている。次の時間は休みなのだろうか? 或いは教師ではない? 構っている暇はない。もう教室に戻らないと。
だけどこの謎の男をそのまま放置しておくわけにもいかない気がする。人気のない所とはいえ無防備に魔法を使っているのは危ういし、それが今後も継続していくのも頂けない。常識がやはり欠けている。それでも教師か、とむくれたい気分だった。
「あとで、職員室に伺います!」
 だから俺はそう言ってその場を走って後にした。美禰子も俺の隣を走る。男がどういう顔で俺達を見送っていたか、勿論わからない。
 見慣れた場所に出るまで走る。学校の玄関が見えてきた。
「ねえ三四郎、伺ってどうするの?」
「どうするって、勢いで言ったみたいなもんだから、具体的に決めてないけど」
 校内に入ろうとするけど、飛び降りた時と同じように美禰子と共にいることが俺の足を止める。ここで別れるのが適当だ。ところで、と俺は美禰子に訊いた。
「あの人は、Fの人だったか? それともfの?」
 美禰子は意外そうに眉を動かした。
「三四郎、聞かなかった?」
 それが俺には意外で、俺も同じように眉を反らす。
「あの人、最近使えるようになった、って言ってたんだよ」
 そういえば、そう言っていたか。失念していた。
「じゃあ、Fの」
「そう。多分、三四郎と同じように、富子のばら撒いたトチメンボーが、何らかの原因であの人にも宿ったんだよ。結構大量にぶちまけてたでしょ。多少距離があっても、トチメンボーが飛散していく過程で接触したことはありえると思う」
 俺の他に魔法使いになった人がいたりして、そんなまさか、と苦笑し合っていたのを思い出す。まさしく、そのまさか、だ。
 もう少し話をしていたいところだったけれど、今の状況ではこれ以上のことは望めない。時間だって一分も残されていないことに気付くと、お互い別れの挨拶も程々に俺は教室に、美禰子はワガハイが留守番する家へと帰っていった。
(結構、若い先生だったな)
 名も知らぬ魔法使いの姿を思い出しつつ、少々汚れた内履きで廊下を走る。一年三組が見えた時にのんびりとチャイムが鳴った。鳴り終わったのは俺が席に着いた時。ふうっと安堵の息をつくと同時に国語の先生がこれまたのんびりと教室内に入って来た。
 授業もすぐに始まる。俺が憂鬱にも怖れていた怒涛の質問攻撃はそのお蔭でどうやら回避できたらしいが、周りをよく見渡すと隣同士で俺の方を見ながらひそひそと話していたり、話さなくてもじっとこっちを見ている地帯があった。これほど視線を痛いと感じたのは多分初めてで、何も悪いことをしてはいないのに、俺は委縮する。
(あの人なら、平然と構えていられたりして)
 何せ学校で堂々、とまではいかないけれど、禁止されている喫煙をのんびり楽しんでいるくらいなのだから。魔法をあんなに軽々と使って、全然気にしていないところも大人の余裕に溢れていた。でも俺はまだ子供で、周りの奴らも当然子供。そして子供なら派手な喧嘩をするのだ。大体は、どうでもいいつまらない理由で。
 しかし幸運なことに五限目というのは一番眠りを誘う時間帯だ。春のうららかな陽光、満たされた腹、更に授業はつまらない国語ときている。数千年前の漢文は見ているだけで瞼が落ちてくる。感じ取れる視線は徐々に減少し、机に伏せっている姿もちらほら出始めた。そのまま眠って夢でも見てしまえば良い。夢の内容の方が現実よりずっと奇妙だ。そして俺と美禰子のことなど、追及しなくなればいい。
(いやむしろ、そんなことは無かったと思えるくらいになっちまえ)
 心の中で呟いたそれはやけに小気味よく聞こえた。本当に、不思議なくらい。
(……そんなこと、無かった)
 心中で復唱する。
 ここ約一ヶ月間の出来事が、もし、全て夢だったら。嘘だったら。
 俺はただ、壮大な夢の中にいるだけだとしたら。
 美禰子だって、本当はそうじゃなかったら。
(本当は、そうじゃなかったら)
 何が? 何が、そうじゃなかったら、なんだ?
 俺は何が言いたいんだ?
 は、と体ががくりと揺れる。いつのまにか思い切り意識を手放していたらしい。瞬きを何度もする。現実を取り戻していく感覚は何か失敗をしたようで妙に恥ずかしい。
 何を考えていたんだろう、と額に手を当てる。こうやって数秒前のことが思い出せないんだから、皆昼休みのことなんてすっぱり忘れてくれ。忘れろ。忘れてください。
(皆眠って、忘れちまえ)
 しかし、そんな儚い願いを抱いた頃もあった、なんて言葉がまさに五時間目を象徴することになる。……真面目に授業を受けなくて、先生に申し訳なくなってきた。テストではいい点を取れるように頑張ろう。
「さーあてと!」
 というのも、休み時間が始まり先生が教室を出たと同時に、俺は敵の猛烈な奇襲に遭ったからだ。
「話してもらおうじゃないかね! 三四郎君!」
 与次郎が俺と向かい合って座り、攻撃を開始した。案の定というか、与次郎を中心とした俺の友達グループが質問陣らしい。クラス中全員がこちらを向いているというわけではないが、注目されているのは間違いない。
「お前と一緒に階段を走りぬいていったマドンナは誰だ!」
「だーかーら、あの子は知らない子だって! どっかから紛れてきたんじゃないの?」
 仕方ないとはいえ、嘘をつくのはどうも歯がゆい。
「嘘だっ! 手なんか繋いじゃって!」
「知らない子知らない子。マジで知らねえって。俺だって気が動転してたから、あの場は流されるままだったの! あの子に」
 思えば美禰子に出逢ってから全てに流されるままだったような気がする。意外な所で気が付いたものだ。流されることと受け入れることは、似ているようで微妙に違う。しかし俺の言葉を受け入れず、ほーう? と俯瞰してくる与次郎達。
「俺達にぬけがけして、これがきっかけであの子とイチャイチャなどと考えてはいないだろうな?」
「ないない。人生は何事も一期一会、もう会うこともないだろう」
 言っていて空しかったけれど、そもそも美禰子は人の妻なのだから手を出せば不倫だ。
(人妻、なんだよな)
そうわかってよかった。叶わない恋に夢中にならなくて、済んだから。
わかってなくて醜態を曝していたらと思うと、ぞっとしてしまう。
 何だか無性に切なくなってきた。俺はそれを振り切るため無理やり話題を逸らした。
「だいたいさあ、なんでそんなに必死なわけ。こんな程度のことに」
 廊下の方をちらりと見やると、昼休みの騒動を知っている者は教室にすれ違うたび、この光景を面白そうに見ているようだった。何だか不快だ。
「こんな程度?」
「聞いたかよ」
 まるで俺に失望したかのように友達は肩を落とし、頭を抱えている。やや大袈裟だと言えなくない。
「お前だって健全な男子なら解るだろ! 同級生に女の子がいない辛さをよ!」
 それは、と俺は言い淀んだ。むさ苦しいのはわかる。外の空気とは違う、教室にこもる男臭には眩暈がする。確かに出来れば女子はいて欲しい。けれどもどうしてか、こいつらのように興味を持てない。そもそも俺にとって女子と言う存在は少し怖いものでもあるのだ。でも、本当にそんな理由からか? と俺自身が囁いてくる。他の女の子に興味を持てない理由など、俺自身だけが知っている。とんだ悪魔の悪戯だ。
(本当、は)

 美禰子が、いるから?
 美禰子が、好きだから?

「好きな子とかいないの? 三四郎」
 友達のその素朴な質問は悪魔の囁きよりもずっとストレートに心に刺さってくる。何とも答え難い。嘘は出来るならつきたくない。だけど言ってはいけない。
(だって)
 だって。
 美禰子は、もう。
「わかったろ三四郎! ここ男子校は、人間が生きる上で最も重要な男女間の恋愛を一切禁止された刑務所――プリズンなのだ!」
 お前一人だけプリズンブレイクは許さねェ! と与次郎は断罪でもするかのように指を突き付けてきた。深みに落ちていく俺を引き戻してしまうくらいには何とも馬鹿馬鹿しい。
「何なんだよお前……」
 その刑務所に入学を決めたのは与次郎、お前自身ではないのか? と呆れていたが、今まで俺は考えても仕方のないことを、気付かれないように、鬱々として向き合ってしまっていた。それにまったく気付かない与次郎の馬鹿で真っ直ぐな様子に、心が若干和んでいた。少々、可笑しくなる。
「何なんだよとは御挨拶だな。お前、知ってるだろ? ここ漱流は、いっちばん女子高から離れた所に存在するんだぞ! ああ、朱夏女に近い共学の二校・鏡石と子目が羨ましい! とは、思わないのかっ!」
 そーだ、そーだと軽快にクラスメイトは囃す。この辺りは県内の四大進学校が一挙に集結しているが、言われてみれば、漱流高校と朱夏女学院は間に共学の鏡石高校と子目高校を挟んでいる。確か子目からも離れているはずだ。なるほど、隔離された場所――プリズンとは言い得て妙かも知れない。
「だったら素直に鏡石か子目に進学しとけばよかったんじゃないの?」
 そう言うと親がどうしても漱流に、とか、やっぱトップ行きたいじゃんー、と聞こえる。女の子の問題はどこへいったんだ。
「別に共学の女の子達でもいいじゃん」
「ばっかやろー! 女子高ってのがいいんだよ!」
「そうだぜ、考えてもみろよ、女子高……秘密の花園……女の子同士の恋愛とか!」
「おねえさま、とか、タイが曲がっていてよ、とか!」
「うはー禁断禁断!」
「馬鹿かお前ら」
 口に出すつもりはなかったけどついうっかりポロリと出てしまった。それも真顔でだったようで、馬鹿とは何だ馬鹿とは! 涼しい顔しやがって! と、まるで小さな蜂の巣を突いたような怒りを引き出すことになったが、後悔はしていない。これくらい馬鹿になりたかったもんだとさえ思う。
 そこに、速報速報! と教室の扉を荒々しく開けてクラスメイトが入ってくる。与次郎達は暴れるのを止めて、注目を俺から彼に逸らした。俺も傾注する。
「聞いたか? 次の数Aだけどさあ、先生変わるんだって!」
 えええと教室中から声が噴き上がった。何で何で! と野次のように飛び交い、彼にその続きを促させる。
「それがさー、平岡センセが産休に入っちゃったんだって」
 はああ? とさっきと変わらない――いやそれ以上の驚きの色を加えた声が、まるで伝令の彼を攻撃するかのごとく沸き起こる。なんだなんだと、廊下を往来する人達も、俺の詰問時より数を増やしてこっちを見ていた。
「産休ってどういうことだよ!」
「マジかよ、まだ四月だぜー? しかも始まったばっかじゃん!」
「三月から休みとってたらよかったじゃねーか、センセーよお!」
「てか最初の授業で言ってくれえ!」
 平岡先生は数少ない、若い女性教師だった。このクラスは勿論、他のクラス、学年でも人気のあった先生で、何より女性ということが男子校と言う名の刑務所(与次郎に言わせれば)に巣食う雄達に清涼な風を与えてくれていた、とてもいい先生だったのだけど、まさか既婚者でそれもおめでた――産休に入ったからもう六ヶ月目くらいだろうか? とは恐れ入って俺も目を丸くする。
(お腹はそこまで目立って無かった気もするけど)
 思い返したら不自然に膨らんでいたような気もしてくる不思議だ。とは言えめでたいのには変わりない。元気な子が生まれるといいな、なんて当たり障りもないことを思ってると、周りの男どもは随分どよんと沈んでいた。
「ああ、俺達のオアシスが……」
「ジャスティスが……」
 俺に立ち向かっていた時とは打って変わって、これは美禰子のことよりも衝撃だったのだろう――周りの男子達はうなだれ、六限までの疲れが一気に体中を駆け巡り、極限まで萎れてしまったように見えた。そうしている内にチャイムが聞こえてきた。
「ほら、席に戻れ。俺の周りで萎れるな、暑いんだよ」
 与次郎達には悪いけど、美禰子のことを追究されないならこれ以上の幸運はない。先生にも感謝だ。どうか元気な子が無事生まれますように。
「うう……三四郎……冷酷」
「鬼畜だ」
「どんだけクールなんだ」
「ある意味超越してるぜ」
「男だよ……お前、本当の」
「ええいうっとおしい」
 教科書を埃をはたくようにばさばさと打ちつけたら、まるで幽霊のように彼らは元の席に戻った。
(俺も、美禰子がいなかったら、ああやって馬鹿やれたんだろうな)
 そこで俺はどんな風に笑ってどんな風に呆れ、どんな風に怒ったり悲しんだりしただろうか。想像してみる。一見それは楽しそうで生き生きともしてたけど、どこか物足りなかった。大切な絵の具が一つ欠けているような気がした。どうしても拭えない違和感が一つ二つ、羽のように心に重なった。
 しばらく俺は、教科書を見つめるでも、壁や窓からの風景を見つめるでもなく、ただ何もない空中を見た。自分の呼吸がやけに目立って感じられた。脳裏に美禰子の笑顔や姿が浮かんで、だからといって、何か特別な言葉が浮かんでくるわけでもない。不思議だった。
(さ。授業だ)
 気持ちを切り替える。先生が変わると言っていたが、一体誰が来るんだろう。ここの数学Ⅰを担当している、熊本先生だろうか?
 その問いに答えるかのように教室の扉が開いた。目をさりげなく移動させる。
「あ」
 間抜けな声が俺の口を飛び出た。それは妙な存在感を持ち虚空を漂う。勿論、周りの奴らはみんな俺を振り返り見る。
 そんな声を出してしまったのは無理もない。
 教室に入って来たのは、あの煙草を燻らせていた男だったからだ。
「はい、席について――教科書を出してな」
 彼も俺の方に視線を集中させていた。正直気まずい。ふ、と微かに笑う。
「その様子じゃあ知っているようだが、平岡先生は出産のためお休みに入られた。そこで、先生が平岡先生の代わりに君たちの数学Aを受け持つことになった。松山坊と言う」
 かつかつと簡単に黒板に己の姓名を書く先生。それを見ながらまつやま、ぼう、と試しに無音で口を動かしてみる。字面もそうだが変わった名前だった。トチメンボーとか言う魔法の種とボーが共通してるな、とも思う。坊、だからひょっとすると寺の息子だったりして。そんなことはないか。
 先生はちらちらと俺達を見てから一笑する。
「まあそう落ち込むな。気持ちはわかる。何せ男子校はプリズンだからな」
 先生までそんなことを言うとは。俺が知らなかっただけで結構常識だったりするのか? 与次郎や周りの何人かはうんうんとしたり顔で深く頷いている。
「しかしだな、飛翔する為にはしゃがまなくてはならない。三年間ここ男子校と言う名のプリズンであらゆる艱難辛苦を舐めつくし、耐え抜いた者こそ、大学と言う名のユートピアにたどり着ける」
 それも結構いいレベルのな、と笑う。うむうむ、とやはり深く頷く周囲。冷めた顔で呆れているのは俺だけらしい。
「つまり何が言いたいかというと、ここは腹をくくってお勉強に力を入れて、頑張って大学に入って彼女を作るなり合コンをするなり、ということにしようじゃないか」
 ということで、さっさと授業を始めるぞーと先生は何事もなかったかのような顔色で教科書をめくりだす。その熱弁は本心か、方便か?
(大丈夫かな、この先生で)
 何せ第一印象が微妙だったしな、と昼休みの様子を思い出す。マイペース過ぎてどうにもやる気が無さそうに見えたけど、その心配は無用だった。
 教科書の解説は、まあどんな先生でも退屈なものになる。松山先生のも他の授業とさほど変わらない。ただ説明をするだけだけど、昼休みと違って暢気に聞こえるものでもなく、やる気がない、という感じのものでもなかった。それがまず意外だった。図だってきちんとしたものを黒板に描く。少し難しい問題でも、わかりやすく説明するため、何度も噛み砕いて俺達に説いてくれた。一通り終わると、代数学の方が得意なんだけどな、とぼやいてはいたが、そんな不得手から来る淀みは全く感じられない授業だった。
「半端に時間が余ったな」
 とん、と教科書を机に立てる先生。さてどうしたものかとしばし虚空を見つめて、よし、と瞬く。彼の手元にはいつの間にか問題集があった。
「次に入ってもいいが、ひとつ、問題集の応用問題の解説でもしよう。わざわざこんな色気のない男子校に来てまで、難しい学校に入ろうっていうんだからな、少しは勉強の足しにしてくれ」
 その言葉にみんな笑った。俺も思わず笑う。先生は俺を見て、一瞬だけ違った笑いを見せた。それは――秘密を共有するものだけが見せる笑み――魔法を使える者の笑み、という名が相応しいものだった。俺はそれに、どう返したものか。
 結局笑い返せはしなかった。自分の顔なんて覗けないからわからないけど、きっと道に迷って戸惑う迷子みたいな顔を見せていたんだと思う。

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