走って走って、屋上への扉を突き破るように開けると、外の新鮮な空気が喉に心地よい。ただ少し、気管がひりひりする。急に全力疾走した所為だろう。でもそれも悪くない。
 眩しい日光を手で隠しながら天を見上げると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。俺のことも美禰子のことも魔法のことも、何もかも知らないで、全てを超越してそこにあり続けようとする、神に似たものを感じた。
「ふあーっ、つっかれたあ」
 美禰子の声で、そんな高尚な心象は霧散する。しかし美禰子も、何よりも先に目に飛び込んでくる蒼天に心を奪われたようで、息を整えながらぼうっとしていた。しばらく二人並んで、息を整えながらぼうっとしていた。追手が来る気配もない。多分五限目の授業中は変な目でじろじろ見られ、終われば裁判所もびっくりな質問の嵐がやってくる。でも、それでもいいか、と思うのは、こうしているのが何だか可笑しくて幸せだったからだろう。
 それはそれとして、けじめはつけておかなくてはいけない。
「あー面白かったねえ」
 伸びをする美禰子にあほか、と軽く一喝しておく。
「これでクラス中から白い目で見られること確定だぜ。もう学校来てこんなことすんなよ!」
「はあい」
「弁当は、感謝するけどな」
 どういたしまして、と得意げに笑う。反省しているのやらしていないのやら。だが俺も笑ってしまっているからお互い様だろう。
「ところでさ、ここでご飯食べない?」
「ここで?」
 見ると美禰子は俺の分とは別の巾着袋をぶらぶら揺らしていた。美禰子の分の弁当箱が入っているみたいだ。
「天気がいいから、どこか外に出掛けて食べようと思ってたんだ」
「縁側でよくね?」
 春だもん、と腕を広げる。少し、空を翔けるみたく見える。
「ほら、少し行ったとこに川があるでしょ。あそこの河川敷とかでも」
 行ってもいいけど、と俺は渡された弁当箱をお手玉にするみたくぽふ、と掌で弾ませる。
「あんまり遠くはやめとけよ。いくら魔法使いでも心配するって。補導されるかもしんねえし」
 む、と軽く眉を反らされた。世間的にはセクハラだとか非難されそうだが、対等であるつもりだった。そうだろ、と今度は振り子のように弁当箱を軽く揺らす俺。
「さっきも周りにロリとか言われてたし」
 うう、と怒りや悔しさのそれではなく、少し、悲しげに眉根が寄る。
「幼児体型なのは気にしてるんだよう」
 やばい。調子に乗ってしまった。冗談では流せないものだったらしい。
「あー……ごめん」
 慌てて言い繕うとかえって逆効果かも知れない。だから気まずい想いを素直に出す。いいよ、と存外けろりと返す美禰子にほっと安堵した。
(て言うか、何歳なんだ。今更だけど)
 今更故にいざ訊こうと思っても訊けない。
(もしかしてものすっごい年上だったら……)
 それこそアニメや漫画みたいに何万年とんで何歳、とか、まるでギャグのようにあったりするかも知れない。もしくはあっちの世界とこっちの世界では時間の流れが違っていて、俺と同い年くらいに見えるけど実は俺よりずっと年上であるとか、そちらの方があり得る。
 だって。
(……旦那さん、いるくらいなんだし)
 単にあっちの世界の結婚が早いだけとか、結婚の仕組みが違うだけとか、かも知れないけれど。
(訊かないでおこう)
 俺と大体同い年くらい。それくらいでいい。年齢が何だっていうんだ。年齢不詳ならワガハイだってそうだ。知らない方がいい。俺にとっては今ここにいる美禰子の方が大切だ。
「さっ、食べよ食べよ」
 柵に寄りかかるようにして座った美禰子は既に弁当を広げていた。今更教室に戻れないので、しぶしぶ美禰子のピクニックに付き合う以外にない。この屋上に自然はないけれど、天気は良く、腹が減って、そして、美禰子がいる。だから、本当は断れない筈はない。しぶしぶ、なんてのもウソだ。
「それにしても、男の子がいっぱいだったね」
「男子校だからな。言わなかったか?」
(ラージエフ)も男子校なの?」
 私は女学校だったけど、とコロッケをつまむ。大抵は共学だよと返す俺はほうれん草のおひたしをつまむ。口元へ運ぶ前に、美禰子の方を見やる。
「なあ」
「うん?」
「前から訊こうと思ってたんだけど」
 もぐ、とおひたしを食べ、咀嚼。嚥下して俺は箸を置く。
「その、「ラージエフ」だの「スモールエフ」だのってのは、一体何なんだ?」
「なんだ、そんなこと」
 深刻な話にでもなるのかなって心配したよ、と困ったように笑われた。
「笑いごと、かも知れないけど、用語を共有しておかないと、何かと不便だからな」
 けれど大体見当はついている。箸先を噛みながら言う。
「大方、Fが俺達の世界、そしてfがお前達の世界、なんだろ?」
「そうだよ。なーんだ、説明しなくてもわかってるんじゃない」
「でも正直これじゃ何が何だかだからな。お前の口から説明を聞かないと」
 真面目な俺を差し置き、いつの間に取り出したのやら、美禰子は鼻歌を歌いながらのんびり茶を注いでいる。初めて意識したけど、美禰子はちゃんと鞄を持って来ていた。お菓子も入っていそうである。確かにこれはピクニックだ。何となく童話の赤ずきんを思い出す。
「する気無いのか? 説明」
「するよ。するする。はいどうぞ」
 差し出されたから素直にお茶を受け取る。ごくりと喉を鳴らして茶を飲んだのを見て、美禰子はこう語りだした。
「あのね、この世界はね、(F+f)で成り立っているの」
「わからん」
 何だそれは、と表情も語っているだろう。
「凡そ世界の形式は(F+f)なることを要す、なんだって」
 世界の共存を言っているのだろうか。首を傾げる俺。箸の動きも止まる。
「さっき三四郎が言った通り、(ラージエフ)は三四郎達の世界。(スモールエフ)は私達の世界なのね。それを足すってことは、この世界は二つで一つ、ってことなの。簡単に言うとね」
 共存と表現するよりは、共に並んで立っている感じなのだろうか。でも手を繋いでいる感じではなく、背中合わせの人と人が浮かんだ。
「まず、Fとfは何を意味しているんだ?」
「えっとね、学者さんによって意見が微妙に違うらしいんだけど、Fは焦点、もしくは事実――focus,factのことで、fは感情――feelingを意味しているんだって」
 美禰子はこめかみに指を当てながら、ううんと小難しい顔をしている。過去に習ったことを思い出しているのだろう。
「世界が(F+f)で成り立っているんなら、Fだけの世界だったらどうなんだ?」
「それはね、定義だけの世界になる」
 ちょっと眉根を寄せてしかめつらしい顔を見せながら、んだって、とあくまで仮定を表す美禰子は笑う。定義だけ、と呟く俺に頷く。
「ええっとね……三角形の内角の和は百八十度とか、奇数は二で割り切れないとか。何の感情も趣もない、無味乾燥の、堅苦しい世界になっちゃうんだって」
 聞くだに無機質だった。そんな世界では空はただ青いだけで、気持ち良さなんてないかも知れない。無駄がない、とも言えるだろうか。それはかえって窮屈でもある。
「そんじゃあfだけの世界だったらどうなる?」
「今度はね、「何の理由もない」のにただ、「怖い」とか、「寂しい」とか――ともかく確固たる原因も理由もないのに、様々な感情が迸る世界になるの」
 らしいよ、と美禰子の方もおひたしに手を付ける。想像するしか出来ないけど、何の理由もない恐怖や怯えに翻弄され続け、人間の社会として機能しなくなる世界が浮かぶ。感情の迸る世界なら当然、嬉しいや楽しいなどの善い感情だってあるはずなのに、どうしてか、あんまり存在しないような気がした。マイナスの感情に、プラスの感情は駆逐されやすいのかも知れない。喜びより痛みや苦しみの方を人はより覚えている、とも言うから。
「Fだけでもfだけでも、人間は生きていけないのは、三四郎なら解るよね? 人間には、あらゆる定義――ルールが必要だけど、それ以上に感情が欠かせないもんね。もちろん逆もそう」
「どちらが無くなってもいけないし、多すぎても少なすぎても駄目。バランスが肝心ってところだな」
「そうそう。これってそのまま、理性と感性に置き換えても大丈夫だと思うな」
 嬉しそうに美禰子は頷く。
「この考えに則って考えれば、私も三四郎も同じ世界――(F+f)の世界の人間だって言えるよね」
「じゃあ、わざわざFとfに分ける理由ってのは」
 もしかして、と小さく、示し合わせるように言えばそう、と美禰子が一拍置いて笑う。
「魔法が認識されているか否か、だよ」
 そう言えば自分でも魔法と感情は密接に関係しているのかも、と推論を立てたんだった。感情――即ちfeeling。まさしく魔法の世界を象徴するに相応しい。
「てことは、俺が魔法を使える体になったのは、世界が(F+f)で成り立っているからか」
 空いている左手を開いたり閉じたりしてみた。相変わらず、魔力があるとは思えない、何てことない普通の手だ。
「Fもfも、人間が生きていく上で欠かせない、互いに密接に関わり合うものらしい。実際そうだろう。それが二つ合わさって世界っていうことになると、Fもfであり、fもFってこと……でもある。よな」
「そうとも言える」
 声に出して整理していく俺に、相槌を打つように美禰子は頷いている。
「だから、俺はFの世界の人間であるにも関わらず魔法が使えるようになったし、fの世界でも科学はちゃんとある」
「そうだよ」
「だけど、魔法の存在がはっきりしてるのと、そうでないのとは全然違うから」
「だから、分けるの」
 ハンバーグを二つに割って、はい、と俺の弁当箱に入れてきた。ありがと、とちょっと照れて言う俺に気付いた様子はない。
「分かれている、だけど本当は、私達の世界は一つなの。言語が共通しているのもそのお蔭、なんだって」
「ああ……なるほどな」
 漢字やカタカナや英語、それらが入り混じった包装だったfのカレールーを思い出す。確か美禰子は俺の英語の問題も解いてたっけ。
「かいつまんで説明するとこんな感じ」
 ああ、難しい話をするとお腹がますますすいちゃうよ、と美禰子はぱっぱぱっぱと箸を動かし、温めただけの食品に美味しいと本気で舌鼓を打ち出した。程よい運動と小難しい話とそして爽快な空の所為かもしれない。俺はもうしばらく頭で世界図を描き、ふんふんと頷きながら整理していた。
(Fからfへ偶然迷い込んだ人もいるんだろうな……)
 美禰子がfからFへ来られたのだから、その逆もあるはずだ。古くから物語や伝承に描かれている別世界は、もしかするとfのことなのかも知れない。神隠しなんて言うのもあるけど、それもfへと迷い込んだケースなのかも。
 ただ、魔法のない科学文明なこの世界、この時代で、異世界へ渡る方法などそれこそ認識されていない。あったら大ニュースになっている。でも、何らかのきっかけで現代でもあっちへ偶然飛ばされてしまう人がいるかも知れない。特に、超能力とか霊能力とかを持った人とかが。まあ、俺の勝手な憶測でしかないけれど。
(fからFへ偶然、ってのもありそうだな)
 もしかするとワガハイなんかはその類かも知れない。そんなことを考えていると、隣からごちそうさま、と聞こえた。手を合わせている美禰子を見ると、あっという間に弁当箱は空になっている。
「他に、何か訊きたいことはある?」
 少し得意げな表情でそう訊いた。その言葉を待っていた。いっぱいある、とお茶を一口。思い出しながら質問していこう。

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