「当分は大丈夫だろうけど、なまじ権力者だからなあ。この先どっかで反撃される可能性はなきにしもあらずだ。それに教頭だけがうるさいわけじゃねえ、他の煩い教師連中に目をつけられるかも知れん」
「じゃ、じゃあまずはその時代錯誤な格好をなん」
「俺が四国にいた頃のことだって」
 言葉尻が中途半端に抜け落ちてしまう。口も中途半端に開いたまま。
 四国。前の赴任先。
 俺が見た断片と教頭先生の言葉。清さんの言ってた、悪い評判。
「教頭が知ってるなら、知ってる奴は知ってるだろうし」
 親父も松山家も必死で隠してはいるみたいだけどなと他人事のように言う。煙草の煙がゆらゆらのんびりと、細長く上がっていった。
「それ以外でも俺のことをあまりよく思わない奴だって、これから出てくるだろうな」
 下唇を緩く噛む。この人は何か、昔のことについて弁護をしないのだろうか。これもいわゆる、現実を受け入れるってやつなのだろうか。
「どちらにしろいずれここを去るだろうよ」
 けろりとした調子で彼は言った。
「お前だって卒業するんだし、美禰子とも、あの羊全部集まって旦那が元に戻れば、それでさよならだろ」
 寂しい話だけどさ。はあ、と灰色の息をついた坊っちゃんは切なげに微笑していた。
「何、その面白くない顔」
 ずっと唇を噛んだり、歪めていたりした所為で随分むっつりした顔になっているらしい。そうだけどさ、と出した声も聞くからに無愛想だった。
「去ろうとしてた奴が、言わないでよ」
 軽々しく聞こえたのも不愉快だった。坊っちゃんは決してそんな風に言ったつもりはないんだろうけど。
 いや。でも。どうだろう。
 坊っちゃんは無表情で煙草を潰した。次の煙草にはまだ火を付けない。
「坊っちゃん、前に、早く死にたいから煙草吸ってるって、言ってたじゃん」
「ああ」
「それで……それとさ」
 言っていいことなんだろうか。でもそこを避けては、ぼかしては俺は何も話せない。本当かどうかわからないけど、と言いつつ俺は目を逸らした。
「この間、二人して気を失ってた時、俺」
 視線に迷って、足元を見つめた。
「坊っちゃんの過去……多分、四国であったこと、断片的に覗いた気がする」
 長閑な山鳩の鳴き声が聞こえてきた。一拍、二拍、沈黙が続く。
「あっ、何があったかとかは言わなくていい!」
 口を開きかけた気配がして慌てて言った。案の定坊っちゃんは口を開きかけていた。
「別に聞きたくないし。何があったかとかは、何となく察するし」
 そっか、と言うように坊っちゃんは僅かに乗り出していた身を引っ込める。
「わかったのは、さ」
 俺もどこかに背を預けたい。でも動く気になれず、ポケットに両手を突っ込んだ。
「坊っちゃんが死にたいって言ってたのは、多分」
 本人を目の前にして言うことだろうか。でも。
「冗談じゃなくて、本当だった……てこと、でさ」
 返事は無かった。無言はイエスに限りなく近い。
「でも、俺あの時、あのわけわかんない空間で……すげえ必死で」
「そうだな」
 何か言わなくちゃいけない。でも言葉が浮かばなくてしどろもどろになりかけた俺を救うように坊っちゃんは言った。悪くない笑みが浮かんでいる。
「俺は確かに、死にたいくらいショックなことがあった。昔ってほどでもねえ。わりと最近のことだ。一年も経ってないんじゃないかな、うん」
 もうそんなに心配するな。笑みがそう言っている。
「人によっちゃ別にそんな大したことねえ事件だったのかもしんないけど、まあ……下手したらヤバかったし。そこそこトラウマになるレベルだと思うし、俺もまだまだ吹っ切れてなかったな。那美さんがその事件の関係者に似てたもんで、うっかりしちまうし」
 あれがスイッチだったのかねやっぱと言いつつ、ようやく新しい煙草に火をつけた。少し吸って続ける。事件って言い方も悪いかな、とちょっとぼやく。
「それまで、俺は何で生きてるのかもよくわかんない奴だったんだ。お前だってそう思うだろ?」
「そんなこと」
「お前何番目の子だ?」
 え? 俺は瞬く。
「多分……四人兄弟の末っ子かな?」
 多分とつくのは、父親含めた肉親とほとんど付き合いがないからだ。もしかしたら他に兄か姉がいるかも知れない。そうかと坊っちゃんは頷く。
「俺は五男坊なんだ。寺に入れられるつもりみたいな変な名前つけられて、それだけで俺への関心のなさがわかるよな。家の相続とか遺産の話になっても、話の中心からは遠いポジションだ」
 俺に構ってくれるのは清だけだった。そう寂しげに呟く。
「教師にだってなりたくてなったわけじゃない。ただ何もしてないのは松山家の体面的によろしくないからな。コネで四国のとある学校に就職したんだ。まあ、だらだら生きてだらだら死んでくんじゃないかなって何となく感じてたな。一応は名家の坊っちゃんだし、何かしら政略結婚とかの話も舞い込んできそうではあったけど、特にこれといった将来設計もなく過ごす。そう思ってた」
 今思えばかなり悠々自適な暮らしだよなと笑う。
「でも、そこで大事な友達が出来た」
「友達……」
「男女のな。人数は秘密」
 そう言うけど、多分一人ずつだ。
 血を流した男の人と、泣いていた女の人。
「そこそこ楽しい毎日だったけど、ちょっとずつ何かがおかしくなってった。歯車が妙に狂っていったんだ。普通の友達関係に、暗雲が立ち込めていった。別に魔法がかかってたわけでもない。悪魔が何か悪戯したわけじゃない。今回みたいに悪だくみしてた誰かがいたってのも……多分無いな」
 そういうもんなんだよ。煙草を授業で使う指し棒のように振った。
「事実は小説よりも奇なりって言うだろ。物語でも何でもないような普通の人の生活にでも、そういうことってあるんだ。表に出てないだけでごまんとあるかもな」
 それでな。そう言うと、坊っちゃんの笑みは少しずつ消えていった。
「その友達との日々は楽しくて、大切だった。どうして生きているかもわからない俺も、ちょっとずつまともになってった。もしかしたら、俺も生きる価値があるのかもなって思ったんだ」
 でも。言葉が途切れる。
 笑みは消えていた。固い無表情が鎮座していた。
「結果的に、俺は大事な友人の命を奪いかけた」
 自殺未遂に追い込んだと言う言葉。俺が見た、血が流れる部屋。
「大事な女性を傷付けた。悲しませた」
 泣いている、女の人の姿。
「だから……俺は機会があれば死にたかったんだ」
 乾いた笑いが浮かぶ。生きることを放棄しかけた人の空っぽな笑み。
「もっと早くに死ぬべきだったのに、何で今まで生きてたんだろう。もし遺書を書くなら、そう書くかな」
 早く死にたいから、と言うかつての言葉を際立たせるその言葉達は、けれども不思議と重くは聞こえなかった。
「贖罪でもあるし、単に生きていることが嫌だったってのもある。先の見えない人生を生き続けることほど辛くてつまらねえことはねえしな。生きてても家に迷惑かけるだけだ。味方なんざ、清以外にはいなかったし。清がもし肺炎にでもかかったとして、それでそのまま亡くなってたら、俺はこれ幸い渡りに船だって、やすやすと死んでたかもな」
 俺の唇がかなり不愉快な形で閉じてしまっているのは、さすがにわかっていた。眉根だって寄っている。不愉快と言うよりは、俺は今泣きそうな顔をしているのかも知れない。
 やすやすと死んでた? 魔法を手にしても?
 例えば魔法でその身を焼き払っていたかも知れない?
「そんな」
 そんなの短絡的過ぎるよ坊っちゃん。そりゃ、相当にショックなことだったってことは、あの光景を見てしまったから俺だって少しはわかってるつもりだよ。でもだからって死ぬのを考えるのなんて、ないじゃないか。
「でもなあ」
 死んだら全部終わりじゃんか。その男の人も女の人も、坊っちゃんに死んで欲しいって思ってるのかよ。わからねえじゃんかよ。
 人の話も聞かないで。
 俺の気持ちも知らないで。
 全く。この、無鉄砲野郎。
 沢山の言葉を乗せた一言を、思わず言いかけた時だ。ぷはあ、と坊っちゃんは溜めていた煙を吐いた。
「お前があんまり情けない顔してるもんだからさ」
「え……?」
 今の俺の顔? どこの俺の顔? いつの俺の顔だろう。
「誰か一人くらい、俺を慕う奴がいるなら、まあ、少しは生きてやってもいいかなって思ったんだ」
 変に、体に力が入っていた。それが抜けていくのを感じる。
「一人じゃない、よ」
 肩も少し下がる。足下に目をやった。
「清さんだってそうだし、美禰子だってそう。熊本先生もそうだし、与次郎達にだって、坊っちゃん好かれてるよ。皆坊っちゃんにいて欲しいって、思ってるよ」
 恐る恐る視線を坊っちゃんに向けた。瞬きをして、言葉を受け止めている。
「皆が皆じゃないだろ」
 そうだなと返してくれないのは、怯えているから? それとも単なる正論を言ってる? 俺はただ頷くだけ。
「でも」
 だって、ちゃんと用意している言葉がある。
「俺は坊っちゃんにいて欲しいって思ってるよ」
 ずっと誰か、導いてくれる人がいて欲しかった。ワガハイでもなくて、美禰子でもなくて、俺と同じように偶然魔法の力を手に入れた第三者。同じ視点を持つ共有者。
 孤独だった俺が求めていた誰か。
 末っ子だったのに、甘えられなかった俺が求めても得られなかった存在。
「お前」
 視線はいつしか一直線に、坊っちゃんに向かっていた。
「お前」
「うん」
 煙草の灰が、ふわりと地に落ちる。
「お前ホモか?」
 ずっこけた。
「ちげーよなんっでそうなるんだよバカかっ!」
「いや、随分シリアスな顔して言うもんだからよ、俺に気があるのかなって」
 いやーモテモテな俺は辛いぜと本気か冗談か首を掻く坊っちゃんに怒りやら呆れやら、そして何故か笑いやらがこみ上げてくる。表情筋が複雑な要求に耐えかねて爆発しそうだ。
「そうだよなー三四郎君は叶わぬ恋に涙を散らす、悩み多き清純な思春期真っ最中の高校一年生、しかもぴちぴちのオトコノコだもんなー」
「むかつく風に言うなっ! そうだよ! 美禰子のこと好きだよ文句あっか!」
 ぴちぴちとかめっちゃくちゃ気持ち悪い! 誰かに聞こえそうな勢いで怒鳴っても坊っちゃんはやはりどこ吹く風でけらけら笑うのみだ。かと思ったら、ふっと遠い目を差し挟む。
 そんな目で柔らかく笑うんだ。
(坊っちゃん)
 それは苦笑以外の何物でもない。
(四国であったことって、恋愛絡みの事件なの?)
 心で訊いても、答えてくれるわけがない。でも口に出して訊いたところで、多分こんな微笑みを返されるに決まってる。
 だから多分、そうなのだ。古賀先生とマドンナさんのことと、きっと似たようなことが起きた。
 男二人と女一人の三角関係。
(それは)
 俺と美禰子と。
(それって)
 頭で出した名前とベルの音が、しかし重なってしまう。

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