昨夜の雨が嘘のように、穏やかに晴れた気持ちのいい朝を迎えた。初夏の風が爽やかにカーテンを揺らし目を細ませる。昼になっても快晴は続き、少し汗ばむくらいだった。でも風があるから至って気持ちいい。教室に籠っているなんて勿体ない、元気盛りの同級生達は外にわあわあやあやあと繰り出していく。元気なその様子は誰しもの目に微笑ましく映えた。
 空は澄み渡り、無限の生命の煌めきが降り注いでいく。こんな日は誰もが心を入れ替えて、普段の悪行を反省するのだろう。二度寝したり、夜更かししたり、掃除当番をサボったり、宿題をやっていなかったりしてごめんなさい。明日からと言わず今から心を入れ替えます。そんな風に。
「また煙草吸って!」
 禁煙の敷地内で喫煙してごめんなさい。などとは俺の目の前の男は多分思わないのだろう。今日も今日とて袴着なスタイルの坊っちゃんは常習犯たる余裕からか、地べたに腰を下ろしたままぽけっとした顔で俺を見上げてきた。悪いだなんて一ミリも思っていない。むしろ何言ってんだこいつは、くらいは思ってるんじゃないだろうか。
「これで何回目だよホント」
「いいじゃんいいじゃん」
 副流煙被害に気を遣ってるんですうと煙草を振るがそう言う問題じゃない。
「こんなこったろうと思ったけどね」
 俺が昼食後の教室を出たのは、与次郎達よろしく外で遊びたいからではない。いや実際は体を動かして遊びたいところだったんだけれど、魔力の気配をキャッチしたからだった。もしストレイシープだったら厄介だし、とは一応思っているけれどそれは万に一つと言う可能性だった。最初から坊っちゃんだとは読めていた。段々、その人の魔力だ、と言うこともわかるようになってきたので。
「いいじゃねえか、ここんところバタバタしっぱなしだったんだ」
 一服くらいさせてくれよとたっぷり吸って濃厚な煙を吐いた。
「何だ?」
 問い詰めるような目でもしていたらしい。俺だって隠すつもりはない。
「こないだの、夜」
 こないだ。数えればまだ数日しか経っていないから妥当だろう。
「教頭先生達に何、話したのかなって」
 坊っちゃんは自然に目を逸らす。携帯灰皿に灰を落とし、新しい煙草に文字通り自分で火をつけた。指先に焔が揺らめく。
「ま、まさかホントにボコボコに」
「してねえよ」
 言ったろ子供じゃねえんだよと咥え煙草で笑われる。
「それにのだいこの授業、お前取ってるだろ美術。ちゃんと授業してなかったか?」
「あ」
 そうだった。のだいこ――多分野田先生のことだろうけど、その通りだったので頷いた。体は怪我も何もなかったけど、言動はどうだっただろうか。教頭のインパクトの方が強くてすっかり意識から抜け落ちていた。何だか盲点を突かれた感じだ。
「悪巧みを暴いて、ちょーっと脅かしてやっただけだよ。俺のやったことなんて」
「脅かすって、え……」
 暴力でも、言葉でもない脅し。そんなの一つだけ。
「ま、まさか魔法っ」
「手品です」
 のんのんと指を振る坊っちゃんを見てられなかった。あちゃあ、と額を押さえる。もし些細なことから魔法使いであるとバレたらどうしよう。これじゃますます坊っちゃんが校内でキワモノ扱いされてしまうではないか。いや、坊っちゃんだけじゃなくて俺にもf的にもマズいことになるんじゃなかろうか。
「冗談だって冗談」
 ありとあらゆる最悪パターンを想像しては頭を重くしていると坊っちゃんは至って気楽に笑った。冗談? と顔を上げる俺だが、かなり低くてドスの利いた声になってしまっている。
「そこまで魔法リテラシーに欠けてねえよ」
「どうだか。てか何だよリテラシーって。ふざけないでよね」
 語句のチョイスとしては合ってるけれど。おや? 坊っちゃんは何故か片眉を上げた。
「大真面目だぜ、三四郎君やい。何せ俺もヤバかったからな」
 そこで俺はきゅっと口を閉じた。三四郎もじゃないか? と坊っちゃんは灰皿に灰を落とす。思うところがあったから、顎を引くように頷いた。
「坊っちゃんは、どんな感じだったか覚えてる?」
「いんや? 覚えてねえな。どんなだった? 見た目は」
 思い出すだけで気分が悪くなる。無意味に焦燥にかられもする。せっかくこんなに天気がよくて穏やかなのに。
「なんか、黒い、ぐねぐねしたものが後ろから、坊っちゃんを食べるみたいに」
 皮膚に赤い閃光――多分魔力の光か何かが走ってもいた。もし夜中じゃなく日中見たとしたら、ホラー映画の一場面と思うかも知れない。いや、ホラーなんて生易しいものでもないか。へえそいつぁグロいな、と当の本人はのほほんと笑う。
「あれ……何だったのかな。美禰子もよくわかんないみたいだったし」
「そうさなあ。言うなれば、魔なるもの、だろうよ」
 魔、とぼんやり返す。だって魔法だぜ、と煙草で空中に「魔」らしき字を書いた。画数が多いから灰が散る。美禰子と言えば、応戦してたからあんまり坊っちゃんの方が見えてなかったのもあるだろうけど、かつてこんなことを言っていた。
(魔法についてはまだまだ明らかになってないことが多いんだったな、そう言えば)
 研究所のストレイシーププロジェクトとやらは、汚い大人の思惑も盛り込まれてるらしいとも言っていた。未だ不可解な点の多い魔法のデータを得るために、何もわからない善良な人々を実験体にしようとしているとか言う話。
「そんな力を得てしまった俺達は、自分で思ってるより相当ヤバい奴らなのかもな」
 坊っちゃんはまるでこっちを見透かすようなことを言う。言葉とは裏腹に面白いものを見つけたとばかりに意地悪く笑っていた。まだ坊っちゃんには研究所のことを話していない。その内話さないと。
「シンデレラの魔法使いのばあさんなんてのとは、多分えらい違いなんだろうな」
 シンデレラの魔法使い。清さんと同じ喩えだ。でもまるっきり違うことを言っている。
「油断したら今度こそ、だ」
 煙草を潰して、新しい煙草に火をつける。言ってるそばから魔法をホイホイ使ってたらざまあないと思うんだけど。
「坊っちゃん、ホリックだったもんね」
 やっぱりあれは兆候だったんだ。無理にでも叱って魔法を使うのを制限させればよかった。でもそうしたらしたで別のことが起こってたかも知れない。
「まあ自分強く持ってりゃ何とかなるさ、大抵のことは」
 体が資本だ何事も、と煙草を吸う。なんだか気持ち良く寝てる時の寝息のようだ。
「魔法なしには羊狩りも出来んだろ」
「狩りって……美禰子が聞いたら怒るよ」
「変わらんだろ」
「それより結局どうなったのさ。先生達と」
 何の為にここに来たのかわからなくなる前に話を戻す。ああ、と坊っちゃんはぼんやり空を見上げて消えゆく煙を見送る。
「ひでえ奴らだよ」
 溜息なのか、煙を吐く為なのか。重い息をつく坊っちゃん。
「うらなりくん……ってのは俺が勝手につけてるあだ名なんだけど」
「あだ名のセンスゼロだね」
「教頭のことは赤シャツだ」
 見たまんまじゃん、と苦笑した。坊っちゃんは誰にでもあだ名をつけるタイプなんだろうか。
「野田のことはのだいこだ。知ってるか? 太鼓持ち。幇間。落語とかに出てくるやつ」
「あだ名のことはいいとして……うらなりくんって誰」
「古賀先生だよ。英語のな。お前のとこのクラスは授業持ってないのか」
 なら知らなくても無理はないかと何度か頷く。でも一人心当たりはある。
「もしかして、この間熊本先生と一緒に何か話してた先生? なんつーか、気弱そうな」
「なんだ、見てたのかよ」
「えっと……もっと言うと」
 もう別に秘密にしなくてもいいだろう。
「ちょっと前に……坊っちゃんに突っかかってるところも見たよ」
「それもか」
 ははと笑う。困ったように眉尻を下げていた。黙っておくべきだったろうか。
「何話してるかは、どっちも全然わかんなかったけど」
「まあ、簡単に言うとな」
 どこから話すかな、とまた灰を灰皿に落とす。
「うらなりくんはああ見えて名家の出でな。漱流の理事長の娘の婚約者なんだ」
「ふうん」
 なんて生返事したけどむしろ納得だ。線が細い外見や気弱そうな姿は、偏見が大分入るけど温室育ちの印象とも言える。がさつで庶民的な坊っちゃんの方が名家のお坊っちゃんである方がおかしい。
「でもあの赤シャツってのが悪い奴でな。権力を得る為に何としてもうらなりくんを追い払って、その子の……マドンナの婿の位置を奪おうと考えた」
 マドンナ。確か教頭先生達もそんな風に呼んでいた気がする。暗号のようだ。いや、コードネームってやつか。
「うらなりくんは、お前も見ただろうけどああ言う内気な、勢いに呑まれやすい人だからな。赤シャツ的には楽勝だと思ったんだろうが、あまりに露骨に排除しようとすると具合が悪いだろう。何とか自然に、角が立たないようにしたい。そこに現れたのがこの俺だ」
「教頭先生は坊っちゃんを利用したってこと?」
 まあそうなる。坊っちゃんはそう頷いて続けた。
「漱流の理事長の一家と俺の家は古い付き合いでな。いわゆるコネで俺はここに来たわけだ。実を言うとマドンナともちょっとした幼馴染で、新任教師の歓迎会の集まりで久々に再会して話したりしてたんだが、まあそれがうらなりくんにはあまりよろしく映らなかったんだろう」
 猜疑心の強い人らしい。それも印象とそう大きく違わない。
「赤シャツはそれを察して、俺への不信に付け込む形で、いろいろあることないことうらなりくんに吹き込んだ。曰く、マドンナを奪って学園を乗っ取ろう、うらなりくんをどこかに追放しよう、とかそういうことをな。それでうらなりくんは激怒、お前も見たように衝突したわけだ」
「そうだったの……」
「ま、俺個人も教頭から嫌われてたみたいだから俺も排除するつもりだったんだな」
「もしかして、あの変な噂とか嫌がらせとかも?」
 話が早いな。坊っちゃんはにかっと笑う。
「全部赤シャツの仕組んだことだったんだ」
「それはまた」
 あの例の噂以外ノーダメージだったことを思い出すと教頭先生の苦悩が知れる。ご愁傷様だ。
「ま、俺も一応はいいとこのボンボンだからなあ。やっかみだやっかみ」
「いやどー見ても秩序を乱す変わり者だったからでしょうが」
 相変わらずレトロ教師スタイルを崩さない坊っちゃんである。でも教頭先生も赤いシャツは教師としては結構派手だったしあまり人のことをとやかく言ったり、目の上のたんこぶ扱いは出来ないんじゃなかろうか。俺のはいいんだよ結構評判いいんだからと抜かすけど、多分理事長とのコネがあるから辛うじて許されてるんだろう。本当のところは謎だ。
「話を戻してだな。マドンナの方も、うらなりくんは出世だけが目的で婚約してるだとか、他にもいろいろあることないこと赤シャツに吹き込まれててな。人間関係結構ドロドロになっちまったわけよ」
 昼ドラだな今の時間的に、と何気なく付け加えた。
「そのこじれた関係図を、ちょっと前まで修繕してたってわけよ」
「バタバタしっぱなしって、そのこと?」
「そ。俺も山嵐もくたくたよ。でもお蔭でうらなりくんとマドンナはちゃんと元鞘に収まった。むしろ前よりいい感じになったから、めでたしめでたしだな」
 坊っちゃんは言ってにっこり笑う。自分のことのように喜んでいる。そりゃお疲れ様、と俺もほっと息をついた。
「赤シャツとのだから裏付けが取れなかった所為で、もう少し遅れてたら本当に破局してただろうし、その後で俺も適当に難癖つけられて左遷でも何でもされてたかも知れん。全く、あのストレイシープには大感謝だぜ」
 災い転じて何とやら。そんな風に満足そうに坊っちゃんは笑う。でも俺はどうも微妙な表情のままでいたのか、何だよ、と問われた。
「教頭先生達をぼこぼこに殴って、坊っちゃんクビになるかもって思ってた」
「だーから、んなことしねえって言ったろ」
 せっかく命からがら坊っちゃんを呼び戻せたのに、そんな風になったら元も子もない。坊っちゃんの返しは軽くてもこの呟き、俺には結構重い。
「でもま、なるかもしんねえな」
「え」
 その重さがそのまま投げ返ってきた気がした。

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