そんなこんなで帰り道襲撃の事件から数日が経った、夕食後の徒然とした時間。坊っちゃんは外で食べてくると連絡があっていなかった。いまいち興味のアンテナに引っかかるテレビ番組が無いのか、美禰子はつまらなさそうだった。明日の授業の予習でもするかな、と腰を上げた時だ。
「あ、雨だ」
 美禰子が縁側に出た。入ってこないようにしなきゃねと網戸を締める。しばらくするとさらさらとした控えめな雨音が静かに聴こえてきた。強くはないが、小雨でもない。そう言えばもうすぐ梅雨の季節だ。猫的にはどうなんだろう。顔を洗う回数が増えるかな、とワガハイを見て思う。なんじゃいと言葉なく前足を舐めた。
「雨、ですか」
 食器を片づけていた清さんの手は止まっていた。降る雨を肩越しに振り返る彼女の目はどこか遠い。
「坊っちゃんがここに戻ってきた日も、雨が降っていたんです」
 語り出した清さんの声は外に降る雨音と同じく静かだった。俺も美禰子もそっと耳を澄ます。
「その頃私は、ちょうど松山のお家からお暇を貰っておりまして、甥の家にでも厄介になろうかと思っていたんです」
 坊っちゃんのいないお屋敷で働くのは寂しすぎて、と苦笑する。ちょっと泣き笑いにも見えた。
「私を訪ねた坊っちゃんは、泣いていたんです」
 俺のそんな何気ない感想が、意外な人の涙に繋がる。お恥ずかしい話ですけれど、と眉を下げる清さん。
「泣いている坊っちゃんなんて、私は」
 躊躇うように少し沈黙を置く。ややあって、初めて見ました、と繋げた。やや斜めに逸らされた視線の先にあるのは、泣いている彼の幻かも知れない。
「小さい頃から無鉄砲な無茶こそすれ、泣いたりひねくれたり落ち込んだりすることなんて、まず私の記憶している限りでは全く無いお人でしたから。思春期の頃でだって」
 でも坊っちゃんだって子供じゃない。見えないところで泣いていただろうし、落ち込んだり卑屈になったり弱気になったりしただろう。でも清さんの前ではいつでも、子供の頃のまま変わらない自分でいたんだろう。中途半端に大人になっていくところを、見せないでいた。それが彼にとって、そして清さんにとって、癒しだったのか苦痛だったのかはわからないけれど。
 でもその時はついに見せてしまった。そういうことだろうか。
「そりゃあ、私としては坊っちゃんがいなくて寂しいと何度手紙に書いたか知れませんけれど」
 清さんはただ戸惑いの苦笑を浮かべた。
「あんな悲しい顔で戻ってきて欲しいわけでは……なかったんですよ」
 誰だってそうだ。自分が、あるいは相手が悲しんだり傷付いたりしてまで、何かを欲しがったりしない。そんなのどっちにとっても辛すぎる。でも運命はその道筋を坊っちゃんに、清さんに歩ませた。
「坊っちゃん、どこかの学校に赴任してたの?」
 空気を変えようとしてか、美禰子は訊いた。ええ、と頷く清さんは少し明るい表情に戻っていた。
「でも、そもそも教師という職業も、なりたいわけではなかったそうですよ」
 そうなの? と瞬く美禰子。思い当たる節があったから俺は頷きもせず黙って聞く。
「たまたま適当に大学に進学して、そのまま卒業するのもどうかと思ったので、どうせなら何か資格を取ろうと思って教員免許を取ったそうですよ」
「行き当たりばったりだね?」
「ま、坊っちゃんらしいと言えばらしいけど」
 多分清さんの言葉は大体どころかほぼあっているだろう。
「ちょうど四国の方で、松山のお家と縁深い学園が数学教師を一人募集していたんです」
 そこに赴任することになったと言うことだ。いわゆるコネと言うやつ。
「でも……そこで何かあったんだね」
 美禰子は目を伏せた。いつのまにやらいつもいるあのストレイシープを抱え込んでいる。すっかり抱き枕だ。俺も目を伏せる。あくまで断片でしか無かったけど、坊っちゃんの過去の真実に肉薄しているのは多分、この中では俺だけだ。美禰子もこの間の教頭先生達の話を聞いていたから、覚えていれば思い出しているだろう。
 誰かを自殺未遂に追い込んだと言うこと。
 そして、俺が見たもの。
 誰かの血が流れた部屋。泣いている女の人。入院している男の人。深い後悔を抱えた坊っちゃん。
 何もかもが赤に染まる世界。血飛沫を吹き上げるような、狂った赤の世界。
「そのまま坊っちゃんは再就職もしないで、おんぼろのお家を無理やり借りるような形で私と暮らし始めました」
 確か前の家は、取り壊す予定の松山家の不動産だったと言う話だ。何と言うか、まるで世捨て人だ。
「坊っちゃんが何も言わない以上、私も何も訊けませんでしたので、詳しいことは全く知らないのです」
 ただ。清さんは躊躇いがちに口を開く。
「四国の方で坊っちゃんとお友達に関して、何らかの悪い噂があったようです」
 それだけしか、と清さんは眉を下げた。噂。あまり聞きたくない言葉だ。
「ともかく、半年ほど坊っちゃんは、こう言ってしまっては悪いのですけれど、何となく抜け殻になったような生活を続けていました」
 何と言うんでしょう、と清さんは上目遣いに宙を見つめる。
「昔風に言えば、高等遊民……でしょうか」
「今風に言えばニートってやつだよね?」
「そう言えば前にニート暮らしがどうたらこうたら、言ってたなあ」
 その後何と言っていただろう。親父がどうのと言っていたような。察したのか、清さんは眉を反らし困ったように笑った。
「でもそうやって暮らし続けていくのも、ね」
 それにまだお若いですのに、と視線の先にある宵闇の雨を眺める。
「そんな坊っちゃんを見かねて……それと四国での噂と坊っちゃんの現状から、松山のお家に悪影響が出るのを危ぶんだお父様が、漱流高校の教師の職を紹介してくれたのです。勿論、お家の為だけでなくて、坊っちゃん自身の為を想っての斡旋であったと思いますわ」
 思いたいのです。清さんは小さく祈るように呟く。
「それでも、あまり乗り気ではなかったようです」
 ふうん、と小さく美禰子は頷いた。それ以外は無音で、雨音が沁み込んでくるようだった。俺も頷く。職が決まるまでずっと空っぽな生活をしていたんなら、何かをしようと言うやる気だってとっくに萎んでる。寝過ぎて逆に体がしんどくなるみたいな感じ。それに坊っちゃんはそもそも教師になりたくなかったんだ。だから余計。
「そして漱流高校へいよいよ勤め始めようか、とする……少し前のことでした」
「もしかして」
 美禰子は思いついたとばかりに指を一本立てた。清さんは頷く。
「坊っちゃんは、魔法が使えるようになったんです」
 どのタイミングで使えるようになったか、正確な日付を清さんは覚えていなかった。でも心当たりと言えば当然、あの日、富子が散らした無数の魔法の種しかない。それをキャッチし、魔法に目覚めたのが坊っちゃんなのはあくまで偶然だけど、彼を取り巻く状況がそんなドラマを背負っていたなんて。
「炎を出したり消したりする坊っちゃんは、大層はしゃいでおいでて」
 神の贈り物か、はたまた地獄への誘いか。坊っちゃんはどう思っていただろう。魔、とつく以上、意地の悪い悪魔から贈られた、坊っちゃんを更に狂わしかねないものだった可能性だってあったのに、清さんの穏やかな横顔を見る分には、そうじゃなかったようだ。学校で堂々と使うくらいだ。察しはつく。
「最初はさすがに手品か何かだと思いましたけど」
「あ、さすがに思ってたんだ」
「あら?」
 私何かおかしなことを言いまして? と首を傾げる。美禰子はくすくす笑った。
「いや、だって清さん、結構魔法に馴染んでますし」
 巨大羊を見ても一般人の驚きとは違ったものを見せていたのはまだまだ記憶に新しい。
「すごく柔軟性あるよねえって思うよー?」
「怪しげなインチキ商法に引っ掛かりそうで危なげでもあるのう」
 黙って聞いていたワガハイが初めて声を上げる。魔法はインチキじゃないけどねと返す美禰子だが、インチキだと言えば大抵大丈夫だとか何とか言ってなかったか。それはそれこれはこれ、と美禰子は察してか俺にウィンクを飛ばす。
「そうですねえ……古い人間ですから、そう言ったものに騙されてもしょうがありませんけど」
 しょうがなくないもうちょっと疑ってかかれただでさえも老人が狙われる世間なんだぞ、なんて坊っちゃんがいたら言いそうだ。その坊っちゃんの当時のことを思ってか、清さんはやはり柔らかく笑う。
「魔法を使う時の坊っちゃんは、とてもとても自由で、楽しそうに見えました」
 その時彼女は、何年ぶりに見ただろう。
 本当に子供のように笑い、はしゃぐ彼の姿を。
 侮りでも揶揄でもなく、本当の意味でまさしく坊っちゃんと言えるような姿を。
「つい先日まで何年も老いぼれて見えていたくらいなのに」
 風が吹いたら飛ばされていたような、淀みに浮かぶ泡沫のような、儚さを極めていたはずの命だったのかも知れない。赤い世界の電車に乗っていた坊っちゃんを思い出す。もう朧げな記憶だけど、生気が失せたような顔をしてはいなかったか。
「魔法と言うものは、人に笑顔と、そして豊かな希望を与えてくれるものなのかも知れない、と」
 もう二度とこの人は、こちらの世界に戻っては来れない。
 そんな風にも思えるくらいだった人が、魔法を得て息を吹き返した。
 凍てついた魂が動き出した。その魔法を象徴するような、燃える息吹が吹き込まれた。
 その時の坊っちゃんが本当はどう考えていたか知れない。死にたいからと体に悪い煙草を吸っていたり、傷を見て不穏に笑ったりもしていた。死ぬ道をきっとどこかに見出してやろう。そんな風に虎視眈々と機会を伺っていたかもしれない。無邪気な子供の顔を見せて清さんを油断させていたんだ。大人だからそれくらい器用にやってみせただろう。
 でも百パーセントそうじゃなかったかも知れない。
「私はその時、そう思ったんです。それこそ本当に、絵本の世界の、シンデレラに魔法をかけた魔法使いのように」
 美禰子は満足そうに微笑んでいた。坊っちゃんにとっての魔法が善きものだったことに、素直に喜んでいるようだった。
「でも」
 清さんは美禰子のその笑みに、実は少し違うんですよと言う風に柔らかく目を細めた。美禰子はきょとんと目を瞬かせた。俺もだ。
「魔法より何より、三四郎さんや美禰子さんとお知り合いになったことが、きっと一番、坊っちゃんを元気にさせてくれたと思います。同僚の熊本先生も」
「え」
 何か照れちゃうなあと美禰子は頬を掻く。俺はただ瞬くばかり。
「坊っちゃん、いつも三四郎さんのお話をされていましたよ」
 彼はどんな風に俺のことを話していたのだろう。例えば、手のかかる弟のように? あるいは可愛げのない生徒だとか? どちらにしろ、いつも俺がむかつくような得意げで偉そうな表情でああだこうだ言っていたんだろう。多分ほとんど間違ってないはずだ。
「少し前の坊っちゃんがまるで嘘のように、よく笑って」
 そう。にこにこして。悔しいくらいに、脳裏に浮かぶ。
「だから、本当にありがとうございます」
 清さんの目の端。きらりと何かが光った気がした。
「坊っちゃんに素敵なものをくださって。坊っちゃんと一緒に、過ごしてくださって」
 昔と比べれば清さんにとっても夢のような生活だ。むしろ坊っちゃんをずっと見守ってきた彼女にしてみれば、毎日が魔法以上に信じられないだろう。
 微笑む清さんの頬に涙は流れなかった。きっとただの目の錯覚か何かだ。
「私達もっ、だよ! 清さんっ」
 美禰子は急に身を乗り出してきた。
「も? ですか?」
「そうですそうです」
 ねっ? 美禰子は俺に笑顔をぱっと振り撒いた。
「私は男のきょうだいっていなかったし……あ、少し年上の男の人の知り合いならいますけど、その人とは一緒に暮らしてないし。旦那さんの健三さんとも違うし、義理のお兄さん……那美姉の旦那さんの円覚寺さんとか、もう一人の姉の旦那さんとかともちょっと違うだろうし」
 だから新鮮で! そう美禰子ははきはきと続ける。
「毎日楽しいよ? 坊っちゃんは面白いし、頼りになるし、何より清さんのご飯美味しいし」
「あら、不意打ちですね」
 いつもごちそうさまです、いえいえこちらこそ、と女子二人がにこにこして、まるでお花畑にでもいるように見えてきた。清さんのご飯にはまるっと同意だなと口を開きかけた時だ。
「ってことを、ね」
 美禰子が何故か俺を見てふふんと笑う。何か企む不敵な笑み。
「三四郎がいっちばん! 思ってますっ」
 は? 間抜けな顔で抜かしてしまう俺。
「へ? 清さんの飯のこと?」
「ちがーうようっ!」
 あ、違わないけど。と美禰子は小刻みに手を振る。
「坊っちゃんのことっ! 面白いし頼りになるし毎日楽しいしって」
「ええっ、ちょ」
「違う?」
「いや、それはその」
 違わないけどさあと言葉尻を濁す。はっきり言われてしまえば本人がいなくても照れると言うものだ。
「べ、別にそこまでじゃねえし」
 またまたあ、と軽く小突かれる。
「前にも言ったじゃん、図星だったじゃん、お兄ちゃん出来たみたいな気分でしょって」
「図星ってこと最初に言うなよ!」
「やっぱ図星なんだ!」
 にゃはははと笑われた。してやられてしまった感じだ。尤も意図してたわけではなさそうだけど。美禰子ちゃんにはわかっちゃうんだよねーと指を振るが、そんな美禰子の方こそ俺からしたら妹のように見える。なんて言ったら怒られるか。こんな俺達の様子を見て、くすくす、と清さんはただ微笑み続けていた。
「おーうい。帰ったぞー」
「あ、噂をすればだよ」
 まさしくその何とやらで坊っちゃんのお帰りだ。今日はお酒を呑んでくると車は学校に置いてきたらしい。天気予報を見ていなかったのか当然傘なんて持ってなくて、雨に降られて敵わんわとぼやきながら居間にやってくる。コンビニかどこかでビニール傘を買うこともしなかったみたいだ。そう言う大雑把なところ、何とも彼らしい。
「坊っちゃんおっかえりい」
「おかえりなさいませ、坊っちゃん」
「うん、ただいま」
 坊っちゃんが四国からここに帰ってきた時、どれくらい雨に濡れていたんだろうか。清さんの目に今日の坊っちゃんの姿とかつての彼の姿は被さるだろうか。
「何だ三四郎。にやにやして」
「あ、ううん」
 きっと少しも被らない。でもその時お互いが感じた悲しみや切なさや辛さは、土が雨を吸うようにお互いの中に沁みていった。それが少しずつ人を今日から明日へと育んでいく。
 その日が今、もしかしたら報われているのかも知れない。

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