坊っちゃんに降りかかった俺の水の魔法は、きっとどんな瀑布よりも勢いよく地に落とされ、音も威力も半端じゃなかった。とは言え俺が被ったわけじゃないから効果の程はわからない。辺りの熱気を涼ませる飛沫の中で、俺は祈った。
(坊っちゃん)
 いてもたってもいられなくて駆け寄った。
(無事でいて)
 体に負担がかかってか、よろめいた。けれども上げた視界の中に坊っちゃんが見えた。戒めから解かれて倒れている。よかった。もっと手こずるかと思って冷や冷やしていたんだ。あるいは加減を間違えて、死なせてたりなんて。そこまで考えてぞっとした。それじゃもっとまずいじゃんか!
(でも、気絶してる?)
 数秒もしない内に腕が動く。ううん、と唸り大儀そうに髪に手をやりながら起き上がる様は、朝たまに起こしに行く時に見る寝起きの姿と全く変わらない。
「坊っちゃん……」
 よかった。安堵の息の所為で言葉がちょっと潰れた。脱力するように笑う。
「何だこりゃ。びしょ濡れだ」
 風呂入ったばっかなのに、とぼやきながら、俺の方は見ずに浴衣の袂を絞る坊っちゃん。まるで雑巾みたいだった。微笑むのも束の間、俺は腕を組んだ。そしてふん、と今度は荒々しく鼻息を出す。
「水でも被って、反省しやがれ」
 はんせい。そうぼんやりと復唱し、坊っちゃんはようやく俺を見上げた。まるで純粋に大人を不思議そうに見上げる、子供のような丸い目をしていた。坊っちゃんは自分がどうなっていたか、どこにいたのか、そしてこの世界からどこかへ去ろうと――極端な話をすれば死のうとしていたことをわかっているのだろうか。覚えていないのかもしれない。数秒見つめられると何となく気まずい。
「あのさ、その」
「そうだな」
 開きかけた俺の口はニヒルな彼の笑みの所為で中途半端な丸を作る。多分、何となくわかっているんだろう。全く、と歪な丸を三日月に変えて笑っておいた。
「にしても、何だありゃ。怪獣だな」
 坊っちゃんは所々水を絞りながらよろよろと立ち上がり、美禰子の奮戦を見て呆れかえるように言った。羊なのかよあれが、と苦い顔だ。同時にぼわっとサッカーボール大の炎を生み出す。
「坊っちゃん……魔法」
「大丈夫」
 多分、魔法にのめり込み過ぎたから、あんなことになったんだと俺は眉を顰めた。そう言えば魔法に中毒作用はないのかと危ぶんでいたのも、今思えば虫の予感だ。でも、心配するなと坊っちゃんは首を振った。
「こんなびしょ濡れで行けるかよ、風邪引く。気休めでもちょっとは乾くだろ」
「行くって」
「この状況で一つしかねえだろ。加勢さ」
 ケリを付けてやらあ。言ってふうっと火の玉に息を吹きかけた。炎は形を器用に変えて矢尻のようになる。
「おーい、大丈夫か!」
「坊っちゃん! 無事なの、よかっ」
 とわっ! と美禰子はジャンプしてストレイシープ、もとい坊っちゃんが言うとこの怪獣の攻撃を避けた。人質の二人の方は高くあげられていて、ちょうど子供が風船を持っているような格好になっている。これが欲しい? でもあげないもんね。そんな風に挑発しているような。いやいやこの状況でそんなアテレコはおふざけが過ぎるか。
「美禰子!」
「なにようっ!」
「上手く受け止めてくれ、よっと!」
 言葉を放つと同時に坊っちゃんは何かをぶん投げた。火の玉を、尖らせたもの。空中でそれは一つではなく二つか三つか、それ以上に分裂した。
「ほえっ?」
 しゅぱぱと矢が飛んでくるもので、その内の一つが風船の紐に当たる触手にぶすり! とぶち当たる。となると風船は地上との繋ぎをぶっつり切られて天高く上がることになるけど。
「あああっ! 落ちるっ!」
 こっちは人間だ。まず、間違いなく。
「死んじゃう! 何してんの坊っちゃん!」
「まあいっそ死んでもいいくらいだけどな」
「何しれっと言ってんのさあ!」
 俺も叫んだが、んもー! と美禰子の悲鳴に似た叫びも上がった。ぴかりん! と金色の光の粉が瞬時に舞ったと思えば巨大なクッションのような――それこそ風船のようなもこもこしたものが突如として現れる。ひゅるる、と人質二人はそこにぽすんっ、と埋まった。ビーズクッションのような滑らかな弾力があるのか、見た目気持ちよさそうに沈んでいく。
「無茶振り過ぎるよう!」
 坊っちゃんの炎の矢乱れ撃ちが効いているのか、怪獣の方は動きがちょっと止まっているようだけど(美禰子との戦いの疲労もあるみたいだ)少しでも何かが狂えば美禰子も野田先生も赤いシャツの男も命はなかったかも知れない。じろりと睨むけど、すまんすまんと首を掻く坊っちゃんはやはり大して気にしていないようで、いっそ偉大なる神経と褒めたい。
 無事を確認しに俺も美禰子も坊っちゃんも二人のところへ向かった。クッションは何も知らない子供を慈しむかのように、二人を抱えるベッド大くらいに縮まっていた。気絶しているだけで、でも当分意識は戻りそうにない。
 見下ろす坊っちゃんの横顔。表情は固い。
(あんな風になっちゃったんだ)
 二人が無遠慮にべらべら言っていたことは多かれ少なかれ真実に迫っていたと言うことだ。火のない所に煙は立たない。愛煙家にして炎の魔法の使い手の坊っちゃんになんと相応しいことわざだろう。
 それに自分の過去をあんな風に蔑まれたら、誰だって辛い。
「俺が、本当にただの坊っちゃんだったら」
 そんな風に思っていたら、息をつきながらおもむろに坊っちゃんは語り出す。
「俺の過去を、何にも知らないで面白おかしく流布して、うらなりを困らせてるあんたら二人を許せない」
 俺と美禰子は軽く顔を見合わせて首を傾げる。うらなりって誰だろう、何だろう。
「いっそ気が済むまでボコボコにしてる」
「ぼ、坊っちゃん?」
 ジョークだよ、と軽く流す。さっきの発言のこともあるから信用出来なくてじいっと渋い目で見ていると、何故だか坊っちゃんはふっと、気が緩んだように笑った。でもな、と再び眠る二人を見やる。
「俺も、教え子を持つ教師の」
 いや。軽く首を掻く。
「先生、ってやつのはしくれで」
 先生。坊っちゃんを学校以外で随分久しぶりにそう呼んで、俺は魔法をぶっ放した。
 聞こえてたんだ。きっと。
「どこにも行くな、って言われて」
 あの生と死の狭間のような空間での叫び。いや、願い。聞かれてたのか。いや聞こえたから戻ってきてくれたんだ。それはいいけど、急にこっ恥ずかしくなってしょうがない。
「自分でも、もうどこにも行かないって決めちまったもんだから」
 でもそんな俺を見越して笑う坊っちゃんには不思議と腹は立たなかった。悲しいかな、そう言いながら坊っちゃんは大きく息をついた。
「無鉄砲な真似は、もう出来ないんだな。これが」
 無鉄砲。後先考えないで、むやみに行動すること。言われてみれば坊っちゃんのマイペースな奔放ぶりはそうとも言い変えられるかも知れない。多分子供の時からそんな風に言われていたんだろう。
(もし本当に無鉄砲なままだったら)
 自分が罪を背負ってどこかへ行ってしまう――死んでしまうことも是としてしまっただろう。短気な答えだ。うん。無鉄砲だ。
「坊っちゃん……」
 一人で戦っていて、どことも知れないところで俺と坊っちゃんの二人に何があったか全く知らない美禰子はけれども感慨深げな吐息をついた。でも。
「気絶して聞いてないと思うけど」
 ずっこける。まあ確かにそうだ。
「おいおい、せっかくのシリアスな告白に無粋なツッコミ入れんなよな」
 テンションさがるわーとばかりにうんと伸びをした。
「いいんだよ。自分に言ったようなもんなんだし」
 自分を動かすのは、決断を下すのは結局のところ自分だ。坊っちゃんの中にいるもう一人の坊っちゃん。死のうとしていた、死にたがっていた、無鉄砲なことばかりしていた坊っちゃん。
 先生から優しく諭されて、その短気は治まったかな。

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