『ウソダヨ』
 意識全体に響き渡る。水面が光を照り返しているようなゆらゆらとした声は、けれども光とは程遠い。神聖なところなどまるで感じられない。それは不穏極まりない邪悪さで染まっている。
 それはいつかどこかで、聞いた声。
『オ前ダッテソウ』
 俺の中の眠れる憎悪と憤怒を掻き回した声。
『オ前ハ今モズットヒトリボッチ』
 声は手の形を以て再び俺の精神を撫で回す。でもそこはいつぞやとは違う部分だ。
 美禰子達との日々のお蔭で、徐々に存在が薄まっていった場所。
 気付きたくなくて、あえて見ないでいた感情の平原。
(そうなの?)
 そうだ、と言う返答の代わりにそこが疼く。冷たい糸に意識は切なく縛られた。ああ、と力が抜けて意識が更に霞んでいく。萎んでいく。いつしか坊っちゃんが見えなくなって、今度見えてきたものは一人の少年。多分、俺だ。今よりずっと小さな子供の頃の俺。
 一人の少年。いや、一人ぼっちの少年。
 置いてきぼりの子供。捨てられた子供。
 ついていく人が誰もいない。導いてくれる人が、どこにもいない。
 寂しさと言う広大な野にたった一匹で立ち尽くす、それは孤独な羊の姿。
(ああ、そうなんだ)
 莫大な寂しさと孤独は、今でも在る。だって、いつか美禰子は愛する人と共にここを去るだろう。俺のことなんて異性として見ていないし、俺の想いにだって気付かない。いつかワガハイだって世を去るだろう。清さんだって、坊っちゃんだって。
(今の楽しさは)
 かりそめのもの。
 ソウナンダヨ、と精神、いや魂を優しく撫で、背後から抱き締めるそれは甘く囁く。俺の声だったそれは女性の声に変貌していた。聞いたことが無いけれど、もしかしたら、お母さんのもの?
『ダカラコンナ世界、オシナガシテシマエバイイ』
 黒い手が伸びるのが見える。導いてくれる。
 押し流す。激流に呑みこませる。
『赤ク燃ヤシ尽クソウトシテイルアイツト同ジヨウニ』
 ああ、坊っちゃんもそうなんだ。自分を殺して、そしてこの世界も燃やそうとしているんだ。
『何モカモ魔法デ』
 そうだ。魔法ってそんなことも出来るんだ。ううん、そうするのが本当の魔法なんだな。だって、読んで字の如く、魔の力なんだし。
『コノチカラデ』
 黒い手がどんどんどんどん、俺を呑みこんでいく。形を持たなかった精神が形作られていく。真っ黒な手と体。暗黒の皮膚に走る青白い閃光。ああ、と俺は震えた。莫大な力が、世界の扉を開こうとしている。俺にどんどん力が入ってくる。体の形が歪に変わっても、そんなの小さな問題だ。どこからか荘厳な演奏が聞こえてきた。俺の進化を寿ぐ楽章だ。
 この力があれば、ワガハイだってびっくりする。
 あの子だって、すごいって笑ってくれる。
 そう。美禰子の力にだって、やっとなれる。

(美禰子)

 ぴたり、と。
 力の抽挿が止まる。聞こえていた荘厳な音楽も止む。進化が全て止まってしまった。
(そうだ)
 この世界を押し流す。世界がなくなる。
(そうしたら、皆いなくなる)
 誰にだってわかる話だった。言ってみれば、そんなことすらわからなくなっていた。
 また何も見えなくなる。沈んでいく感覚だけ残る。
(美禰子もワガハイも坊っちゃんも清さんも、皆いなくなる)
 いなくなってしまう。本当の、文字通りの孤独。物理的なひとりぼっち。
 確かにいつかそうなってしまう。そもそも皆いつか死んでしまうし、すぐに離れてしまう運命にある。
 でも今は、皆いる。
(俺、世界を壊すのなんて)
 今と言う世界を、壊したくない。押し流したくない。
(そんなの嫌だよ)
 いつか離れてしまうから、別れてしまうからこそ、皆でいたかった。
(俺は)
 今まさに、ここから離れていくかも知れない人がいる。
(本当はすごく)
 見えない腕を伸ばす。届かない人に、ただ真っ直ぐに。
(坊っちゃんみたいな人に、いて欲しかったんだ)
 俺を導いてくれる人。兄のような、父のような、そんな人。
(そうだよ。今ここに、いるじゃんか)
 まさしく先生と、言える人。
(いるじゃんか、坊っちゃん)
 言葉と共に滲んだものがある。体を持っていないはずなのに、それは涙と言う小さな海だった。そして熱い血潮だった。
 坊っちゃんが操る炎のような熱い雫。
 俺が何もかもを嘘だとかかりそめだとか思いたくない、手放したくない、証拠そのもの。
 俺の孤独は今も俺のどこか深くに眠ってる。ちゃんと在る。そうだろう。でも今は独りなんかじゃない。皆がいる。いてくれる。
(そこには)
 坊っちゃんだっている。
 坊っちゃんがいないと、いけないんだ。
 かっと、目を開く。既に精神は体と言う形を得ていた。真っ暗な視界が急に明るくなって、そして広がった。妖しい邪悪な声はその凶悪な形もろともずっと前から消えていた。だからもう何も聞こえないし、誑かされない。あれは悪魔の囁きだ。何かの幻に過ぎなかった。邪悪に汚染されたような真っ黒な皮膚だってない。
 今の俺にあるのはまっさらな俺自身だ。
(そう、だ)
 共にあるのは、同じ魔法使い。
 坊っちゃんの姿を、既に捉えていた。まだ他人行儀な背中を見せている。
(そんな風に去っていくなよ、なあ!)
 天も地もない空間を泳ぐように進みだす。
(過去がどうあったって、そんなの知らない!)
 まだ声は出ない。でも言葉が体と共に駆け出していた。
(俺にとっては今の坊っちゃんが坊っちゃんなんだ!)
 何も出来ない? 眉間に皺を寄せる。強く彼方の背中を睨んだ。
(何も出来なくなんてない!)
 子供扱いするのはまだいい。だけど決めつけるな。子供だけど、俺だって魔法使いなんだ。
(坊っちゃんより少し前に魔法使いになったんだ)
 何も出来ない。心のどこかでそう決めつけていたのは、けれども俺自身でもあった。だけど今満たされる自分を強く信じる力が、心のどこか、捻くれた裏側の遠くさえも変えていく。
(赤い世界の彼方になんて、行かせてやるもんか!)
 漲る。一番初めの春の夜よりも熱い力が、爪先からつむじのてっぺんまで迸っていく。
(どこにも行かせない!)
 あの時は不発同然で終わってしまった俺の魔法。俺の力。
 そしてあの時とは違う、もっと前向きで正しい気持ちに満たされている力。
 大きく手を振りかぶった。皮膚に青い閃光が体を走る。魔法の文様を描いていく。

「坊っちゃん!」

 叫んで、俺は手を伸ばす。

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