三四郎、と美禰子の声がこだましている。小さくなっていく弱々しい火が発しているような響きはやがて潰えた。蝋燭の火が消えて、今は白い煙が上っている。そんな調子。
 堕ちていくような感覚の中、ほのかに感じるのは周りが爆ぜるように焼け焦げていっているらしいことだ。そして信じられないくらい熱い。そんな中で、意識が保てるはずもない。でも不思議と何かのヴィジョンは捉えていた。割れた硝子の欠片がほんの一瞬映していく、それよりもっと儚い景色。
 一枚一枚、その意味はわからない。どんなことがあって誰が何をしたのか、俺にはわからない。
 でも、坊っちゃんがいるのはわかる。
 坊っちゃんがいる部屋に、誰かの血が流れていること。時間が経っていないのか、はっきりとした赤い色だと言うこと。血濡れた刃物が落ちていること。ああ、もしかして坊っちゃんの左手の親指を切ろうとしたって言う例のナイフ? 違う。坊っちゃんは今と変わらない大人の姿だ。子供の頃じゃない。
 でもこんな風に目をかっ開いた、まるで冷静じゃない状態の坊っちゃんなんて見たことない。何かに震えているようにも見える。坊っちゃん、こんな顔も出来るんだ。怯えた顔なんて、見たことなかった。
 次に見えてきたものは、誰かが泣いているところだ。女の人。知らない人。あれ、少し、那美さんに似ている気がする。そこには、坊っちゃんも映ってる。
 もう一つ落ちてくる。白い部屋。病室だろうか。誰かが眠ってる。ああ、さっきの血の人? この人、怪我でもしたのかな。首筋、包帯巻かれてる。普通そんなところ怪我したら、出血多量で死なないかな。よかった、生きてて。ベッド脇にいる坊っちゃんだって、顔がそう語ってる。
 でもどうしてだろう。
 泣きそうな顔、してる。
 安堵の涙じゃなくて、悔恨からくる涙を必死で堪えている。
 どうして。そう問いかけようとしたら次の場面が攫っていった。今度は電車の中だろうか。ローカル線か何か、誰もいないがらんとした車両。ボックス席に腰掛けて、坊っちゃんは遠くに広がる景色を見てた。田舎の長閑な風景。
 ぼんやりと、虚ろな目で赤い日光に照らされて。
 広がる田園が赤く見える。遠くの山の稜線も赤い。山自体も燃えているように赤い。空も赤ければ浮かんでいる雲も赤い。電線も、車も、人も動物も電信柱も、目に映る何もかもが、赤く見える。
 真っ赤な世界に、坊っちゃんを乗せて赤い電車は燃え走る。
 炎の息を吹きながら、深紅の世界が回転する。
(お前にはこの炎は何色に見える)
 血濡れた豪炎の中でいつかの問いもまた炎が噴き出すように突然閃いた。
(ああ)
 今ならわかる。
(あの時)
 あの時もそう。いや、きっとずっと前からそうだったんだ。
(坊っちゃんには、あの炎が)
 きっと、誰かの血の、鮮やかなあの色を見てしまった時から。
(赤色に見えたんだ)
 それはただの赤じゃない。
(何もかもを、燃え尽くすような赫に)
 坊っちゃんを乗せた赤い豪炎の電車は今もどこかを走ってる。世の中全てを染める強烈な赫と朱と紅と赤の世界が、坊っちゃんの根源としてあるんだ。
 それが坊っちゃんの、炎の魔法の由縁。
 やがて景色は消え去った。暗闇だけになる。でも強い赤色が俺の目蓋の裏も赤く染めたようだ。まだ赤がそこかしこに燃えかすのように残っていた。目蓋、と気付いて体を動かすけれど、動いた感じがしない。そもそも腕も足も胴も見えない。
 俺は今どこにいるんだろう。
(夢……?)
 精神だけになっているのは、何となくわかるけれど。魔法の根源――そんなものあるのかどうか知らない、何となくそう感じただけ――を覗いたのだから、魔法そのものの世界だろうか。よくわからないけれど、とにかくどことも知れないところだ。
 坊っちゃんの背後から湧き出して、這い出してきた何かに取り込まれたのかも知れない。一番考えたくないことは、本当は真っ先に浮かんでいた。
(死んだ……のかな)
 いやだな。普通にそう思う。でもまるで真実味がなかった。ふにゃふにゃとした気持ち。レベルとしては気持ちいい眠りから起きたくない、と無気力にだだをこねる感じだ。だから、ここはやっぱり夢の中なのかも知れない。
 堕ちていく感覚は、今も続いていた。やがて闇が漆を重ねるように暗さを増す。
(あ、れ?)
 暗闇が深くなる中で、見える姿があった。
(坊っちゃん?)
 遠くに見えるそれは、後ろ姿だった。初めて会ったあの日、帰り際に見つめたそれと変わらない、広い背中。俺が憧れた先生と言う存在の後ろ姿。
 だけど、それは同時に。
(三四郎)
 やんわりと、距離を置く姿。
 坊っちゃんはその遠い背中を向けたまま俺に呼びかける。
(お前には何も出来ないんだ)
 言葉が出なかった。明確な拒絶に、ますます落下していく。
(何も出来ない?)
 無力な掌を見つめることも、出来ない。器を失った精神は形を留められずただ霧散していく。
(それが現実だ)
 彼の表情は見えない。声は冷たい。
(言っただろう。あるがままを受け入れろって)
 俺もそうなんだよ。続けてそう微かに聞こえる。それ以上言葉を重ねず、勿論顔をこちらに向けることなく、坊っちゃんは一歩前へ踏み出す。一歩、また一歩とどんどん姿が遠ざかる。
 あるがままを受け入れて、その解として、去っていくことを彼は選んだ。
 あるがまま。
 俺が少しだけ断片を見てしまった、あの出来事のこと?
 坊っちゃんの所為で、誰かがすごく、傷付いてしまったから?
 それで? それ、だけで?
(何だよ、それ)
 あれは、誰に言われなくとももう確信していた。
 坊っちゃんが今まで語らずにいた時間の出来事。
 過去のこと。俺達に出逢う前の、自分のこと。
(あんな、変なものに)
 坊っちゃんを包み込んだ得体の知れないものは、坊っちゃんの過去から生まれたものなのだろうか。
(坊っちゃん、奪われる、のか?)
 あの美禰子みたいに空っぽになってしまうんだろうか。
(魔法に、全部)
 食べられてしまう。まるで生贄の如くに。
(もしかして)
 その原因。赤いシャツの奴と野田先生の会話の所為? いや違う。思い当たることはけれども、すうっと身を凍らせた。焦りよりも恐怖が速かった。
(俺が、過去のことに口、出した所為?)
 銭湯で、つい口を滑らしてしまっていた。あのことが無ければ、もしかしたら坊っちゃんの心に隙は生まれなかったかも知れない。こんなことにならなかったかも知れない。
 俺の所為だ。
 計り知れない虚脱感に、ますます意識が薄くなっていく。
(そんなに)
 それは悪あがきの問い掛けだった。
(そんなに、大きい檻、なのかよ)
 本当に純粋な問いでもあった。答えは坊っちゃんしか持っていない。でもその坊っちゃんはとても遠くに離れてしまって俺の声も届かない。だからこれは答えの出ない、俺の自問自答。
(今の全部、まるで、嘘ってこと?)
 出口のない迷路でただ迷う。
(俺の頭を撫でることも、俺達や清さんと一緒に暮らしてることも)
 そう言えば、早く死にたいとも言っていた。
 あれは、冗談なんかじゃなかったんだ。
(楽しいことも、全部?)
 そう言ってしまえるほど、今にいる俺も美禰子もワガハイも清さんも熊本先生も生徒達も、坊っちゃんにとってはまるで意味のないものなんだろうか。あんなに笑ったり呆れたり怒ったり心配したり、そしてまた笑ったりしてきたのに。
 それなのに、独りを選ぶ?
(全部、否定されるような)
 過去の出来事。そのたった一つの黒点。
 まるでそこからの未来全てを覆い尽くす程、それは広大な闇だって言うのか。
(世界から居場所を、失ったような)
 問い掛けは着地点を見失って紡がれ続ける。答える人がいないのだから。
 けれど。

『ソウダヨ』

 それは、突然聞こえてきた。

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