ぽとり、と俺達の足元に、光る何かが落ちていく。さっき美禰子が蛍とかいないかなとぼやいていたけれど、ちょうどその蛍の光に似ている。でも美禰子に言ったように蛍が出るにはまだ早い。そして蛍は煙を立てない。それはただの、坊っちゃんの吸い殻だ。
「うわっ!」
「ひえっ!」
 声が上がったのは向こうの二人からだった。声より先にもう光が見えていた。足下に発つのは、猛烈な火柱。あっちも吸い殻を落としたらしい。踏み込んで火を消そうとしたんだろうか。それが何であんなに激しく燃えている? 魔法でも掛かった? 魔法を使える人間がここには三人もいるんだ。
 そして炎を操る魔法を得意とする者もいる。
「坊っちゃ……!」
 彼の方を向く。ああ、やっぱり。わかってはいたけれど、坊っちゃんのことだったんだ。自分のことを話されて、とんでもないことまで言われて、それで坊っちゃんはカッとなったんだ。なかなか怒りの感情を表さない飄々とした坊っちゃんでも、閾値を超えることがあるんだ。
 それの意趣返しだろ? ただ驚かせたかっただけだろ? すまんすまんって、さばさばした顔で笑うんだ。そうだろ?
 けれど、違った。
「坊っ……ちゃん?」
 坊っちゃんは、笑っていなかった。
 ただ目を大きく開けて呆然としたまま、何を言うことも無く直立していた。突然の発作で倒れるんじゃなくて、その場で固まってしまう症状でもあるかのように。炎を操るくせに、まるで凍りついたよう。
 手元の炎で照らされる彼の顔は、不気味だ。
「坊っちゃん……え?」
 何? と美禰子は杖を抱き締めるように握った。
「ね、ねえ、何、三四郎」
 俺の方へ美禰子は後ずさりしながら訊く。
「あの人達、もしかして坊っちゃんのこと……」
 話、して、と言うたどたどしい語尾は男二人の悲鳴に消された。はっと目を開く俺達は前方を向く。
「う、うあっ、うわああっ!」
 怯えた声の二重奏。それもそのはずだ。野田先生と赤いシャツの男――教頭と呼ばれていた――は怪物と出くわしているのだから。
「あれ! ストレイシープ!」
 とても羊とは思えないシルエット。二メートル超のトラック大くらいあるだろうか。
 今やはち切れんばかりの勢いでランプは危機を告げていた。人間を襲うタイプのなんて初めてだ、と確認し合ってる場合でもない。猛牛か猪、それも超巨大なものとして変貌を遂げたストレイシープは猪突猛進の字の如く、人間二人を突進して跳ね飛ばした。
 間に合わなかった。これじゃ並みの交通事故より酷い。人が死んでしまう。死ぬって、そんな。嘘だろ。
 恐ろしい程の冷気が心を襲った。焦りが言葉にならない。
 しかし、ぐにゅん、とストレイシープの背後から烏賊や蛸の足のような触手が猛烈な速さで跳ね飛ばされた二人に伸びた。ぎゅっとそれは胴に巻き付き、びよんと遊ぶように身を揺らした。ゴムのおもちゃのようだ。でもそんな可愛いものじゃない。九死に一生を得た男二人は、当然気を失っているようだ。
 よく見ればストレイシープは姿を変えている。地獄にいるような牛鬼の如き姿にもはや羊要素の欠片もない。ただのモンスターでしかない。そんな奴は捕らえた男二人を返す気はないとばかりに高く高く持ち上げている。囚人に刑を実行しようとする処刑人のようにも見える。
 確かに、それに見合う程の罪はあるのかも知れないけど、死なせたらいけない。
「ま、魔法、使わないと、でもっ」
「この状況で使わないとかないだろ! 仕方ねえ!」
 気を失ってるから大丈夫だと半ば怒鳴った。もしあの二人が声を出せる状況にいるなら、助けてくれと半狂乱になっているだろう。俺だってそうだ。
「ここはまだ全然人気がないからいいけど、もしこのままこの化け物が住宅街の方にでも行ったらどうすんだ! こないだの坊っちゃんち以上のことにだってなるかもしんないだろ!」
「う……うん!」
 何とかやってみる! 杖を構える美禰子に俺は頷く。大丈夫、美禰子ならこの化け物を何とか出来る。でもさすがにこんな凶暴なのは初めてだから、頷き返す余裕も笑う余裕も全然ないようだった。
「三四郎は、坊っちゃんの方お願い!」
「ああ!」
 それでも、顔を背けない。自分のやるべきことに、決めたことに美禰子は迷わない。それに俺も勇気づけられる。何も出来なくても、やってやろうと言う気になる。美禰子の好きなところで、一番格好いいところ。
「坊っちゃん!」
 叫んで振り返った。坊っちゃんだって大丈夫だ。さすがに今の出来事は予想外過ぎてぽかんとしているだけだった、それだけ。坊っちゃんの大人げない行動にいつも目くじら立てて怒る時のようにすれば、いつものようにはははと何てことないように笑って元の通りになる。
 俺はそう信じている。坊っちゃんと言う人を、そう信じている。
 でも、それは。
 そんな勝手な思い込みは。
「え?」
 突如暴発するように膨らんだ炎の勢いにあっという間に、呑み尽くされた。
 空気を喰らい尽くすように燃え上がる炎は、坊っちゃんが灯りとして浮かべていた子供の炎だ。彼の掌の上のそれはコントロールを無くした気球の炎みたく、どんどん大きくなる。
 その暴力的な炎に照らされる坊っちゃんの表情も目も、虚ろだった。
『赤ク』
 坊っちゃんの頬。ぴしり、と罅が入ったように、赤い閃光が走る。それと共に聞こえた、誰かの声。どこかで発しているんじゃない。俺の脳内に聞こえてくる。
『ソウ、赤ク』
 頬だけじゃなく、首筋にも腕にも手にも足にも赤い閃光が血脈そのものの光のように次々に走っていく。血脈。そう、それはまるで鮮血のよう。
『何モカモ赤ク』
 閃光が走ると共に声があちこちから響いてくる。坊っちゃんの声のようでいて、それとは全然違う女性のようであって、子供の声のようでもあって、老人のようにも聞こえる。揺らめく炎のように形を持たない声のハウリング。
(これ)
 聞くのは、初めてじゃない。
(俺が教室で聞いた、あの)
 赤ク、赤ク、赤ク。あまりの反響に酔いを感じてたちまちくずおれた。俺が聞いたものとは全然違う。あの時は俺一人に囁くようなものだったのに、何だろう。この、地獄の亡者達がめいめいに好き勝手に発しているようなまだら模様の気持ちの悪い声達は。
 気持ちの悪いものは声だけにとどまらない。
(な、んだ?)
 頭を押さえて視界を上げた。虚ろな坊っちゃんの背後から何かがぐねぐねと勢いよく這い出してきた。あの牛鬼ストレイシープの触手よりももっと生々しくてどす黒い触手。あるいは蛇のようなもの。ヘドロのように重苦しく、血のように赤黒い。
 坊っちゃんはなすすべなく、それに飲み込まれる。
 包み込まれると言うよりは、ただ圧倒的に、喰い尽くされる。
 俺の見間違いだといいけれど、坊っちゃんはそれを喜んで受け入れてるように見えた。
 見間違いなんて。
「坊っちゃん!」
 悠長なこと、言ってられないけど。
 同時に苛烈さを更に増す坊っちゃんの炎は坊っちゃん自身を包んだ。坊っちゃんが燃える。燃えている。
「おい! 坊っちゃ」
 死んでしまう。何だかわからないけど、燃えてしまう。
 こんな何もかもわからないうちに、どうして?
 何でめちゃくちゃにされるんだ。
「坊っちゃん!」
 勢いのままに駆け出していた。だけどその勢いは更に強いものに弾かれる。
 迫ってきたものは熱風。圧倒的な熱の固まり。炎と言う現象。
 弾き飛ばされるのは俺自身。
 意識もまた、暴虐的に飛ばされる。
「三四郎っ!」
 美禰子の悲鳴だけが、強く強く脳裏にこだましていた。

  3
せんせいのまほう 12につづく

ワガマホトップ
小説トップ

inserted by FC2 system