カーナビやインターネットのマップのように目的地表示のある地図があるわけでもなし、目に見えないストレイシープの気配を追うのは苦労する。川の上流の方へてくてく歩いてきたけれどミニ杖のランプはぼんやりしたままだ。下流の方だったかもなと坊っちゃんは呟く。それにしても、と俺は来た道を振り返る。
「結構遠くまで来たな」
 橋を二つか三つは越えてきた。ここまで来ればもうご近所ではなく、ワガハイのテリトリーからも外れていそうだ。さすがに一応は都会だから、例えば山の中や森に近いわけではないけれど、街灯の類がほとんどないから視界は暗くてただ気味が悪い。ストレイシープじゃなくても妖怪や怪物の類が出ると言われたら信じざるを得ない。
「なんかさ、なんかさ」
 見るからにわくわくした目の美禰子は身を乗り出す。
「こういう人気のない所でさー、秘密の計画とか話し合ったりしてるんだよねっ、殺人事件のこととかさあ」
「おいおい物騒だな」
「もうあいつは始末出来たのか、とかっ」
「ドラマの見すぎだっつの」
 精一杯凄んだ雰囲気を作る美禰子に怖いこと言うなよなと苦笑した。坊っちゃんも微笑んでいた。暗い中でそうとわかるのは、坊っちゃんが掌に炎を浮かべていたからだった。口元には煙草。点火に使った炎をそのまま出しっぱなしにしているんだろう。ガスコンロみたいだ。
「何やってんのさ」
「暗いんだ。懐中電灯の代わりくらいにはなるだろ?」
 魔法を使いたい坊っちゃんにとってはここぞとばかりの尤もらしい理由だった。もお、と盛大にため息をつく。本当にこの人は憚ると言うことを知らない。
「誰かに見られたらどうすんだよ」
「その時は手品だって誤魔化せばいいだろ」
「そうそう、きっと皆信じないって」
 fの魔法使い代表の美禰子まで乗っかるのか、そう言うのか。一応はfを定義する特徴だろうにそれでいいんだろうか。でも俺が最初ムキになって否定してたように、大抵の人はマジックか何か、総じてインチキだと思ってしまうものだ、こんなの。だからって言って公然と使うのはよろしくないと思うけど。
「それに、こんな辺鄙な所に誰もいないよ」
 そうそう。坊っちゃんは煙草を咥えつつ器用に笑う。
「さっき言ってたようなヤバい事情の連中くらいだな、いるとしたら」
 やだーホントにドラマみたい、とにこにこしている美禰子の手元が、少し明るくなる。坊っちゃんの炎のそれではない。センサーの明度が増したのだ。
「やっぱり、この辺なのかな」
「もー、はっきりして欲しいよな」
 消えちゃわないように追わなきゃ、と杖を元の大きさに戻して空中にかざしつつ進む。ちょっとダウジングでもしているようだ。俺達はまるでアンテナを立てて微弱な電波を逃すまいとするように、慎重に進んでいった。
 もっと上流の方へ進むかと思ったけど、来た道を引き返すような道のりとなる。でも場所より不審に感じたのは前方に見えつつある人影らしきものだった。ごくりと息を飲む。魔法を使える非日常にある以上今更おばけだの何だのに怯えるわけでもないけれど、時間帯と場所の所為だ。美禰子も怪しく感じていると言うよりは何故だろうと言う風にちょっと首を傾げていた。
 だって俺達は少しずつその人影に近付いているからだ。美禰子の手元の光が、強まるから。色を変えていくから。
「もしかしたら、ホントにさっき言ってたみたいな人達かも」
「だとしたら、何かヤバいこと喋ってるってことか」
 俺達始末されるかもなと坊っちゃんはニヒルに笑った。笑ってる場合じゃないと思うけどと俺も苦笑しながら前方を見る。人影は一人分ではなかった。二人いる。体格からして男性。ストレイシープが化けている? それかfの人達。例えば研究所の人とか。いや、fの人だからって反応するのはおかしい。それだったら美禰子や那美さんにだって反応するんだから。
 果たしてそうではないと知ることになる。
「で、古賀はどうだ」
「あの調子じゃ数日ともたねえでしょう。授業もやっとてぇ状態みたいで」
 聞き覚えのある声に、歩みが止まった。坊っちゃんもそうで、美禰子だけがちょっと進んでからすぐ止まる。どうして止まるのか、俺と坊っちゃんの顔を交互に見ていた。でも、理由なんか俺が訊きたいくらいだ。
 二つの人影。小太りな低身長のものと、ひょろりと痩せた高身長のもの。俺はただ目を瞬かせる。誰もいないと思ってか、人影は声を絞らないで堂々と喋っている。
 何でこんな所で、この人の声を聞くんだ? 週に二回、授業で聞く声。
 何でこんな所で、あのいけすかない人の声を聞くんだ?
 この間見かけた、ワインレッドのシャツの男。
(授業? 先生のこと?)
 古賀は別に珍しくない苗字だ。漱流にもいるだろう。でも思いつかない。
「マドンナの方は?」
「こちらも上々かと」
 見られて聞かれていることに夜闇の中で気付けないのか、いやらしい下卑た笑い声を隠すこともない。
「それにしても私らがちょっかいかけて簡単に崩れるようじゃ、最初から終わってる二人だったってことですなあ」
「ああ違いない」
 むしろ窮屈な昼の陽の下でないからこそ翼を伸ばせるとばかりに二人の口はますます開きっぱなしになる。俺達の歩みは逆に闇に縫い付けられたように止まったままだ。
「そもそも、ただ家柄がいいだとか昔からの約束だとかであんな小人に与えられるってのが間違いってやつさ。時代遅れもいいところ」
「家柄、確かに」
 ははっと鼻で笑う美術教師。聞く者を誰彼も小馬鹿にするような物言いにむっとするのも束の間だった。
「あの松山のお坊っちゃんも家柄がなきゃここに来てないって話ですな」
「お坊っちゃんにあるのは家柄だけだろうむしろ」
 一瞬、誰のことを言われているのかわからなかった。そのまま立ち尽くしているしかなかった。
「しかし、こちらとしてはあのお坊ちゃまがいてくれて助かったところもあるがな」
「またまた、最初は踏み潰そうとしてたじゃないですか教頭」
「まともな神経の持ち主ならとっくに姿消してるさ。最初の噂の時点でな」
「教師になってるのが不思議なくらいの無神経さですからねえあの坊っちゃんは」
 坊っちゃん?
 そこでようやく姿が浮かんだ。美禰子を挟んですぐ傍にいる彼の姿が。
 嫌な鳥肌が、全身に粟立つ。
「尤も今回のは堪えているみたいだけどな」
 古傷が抉られてるんだろう、と痩せた方の人影は指先を振るった。ほんのりとした灯り。煙草の灰を落としたんだろう。
 煙草。俺のすぐ傍の男も吸っているもの。
「全く、私らに利用されて踊らされてるとも知らないで、今頃銭湯でストレス発散と洒落込んで泳いでんじゃアないですかねえ」
「はは、暢気なもんだ」
 銭湯には、ああ、ついさっき行ってきた。でも泳いではいなかった。そうだ、坊っちゃんあんなところで泳いでたのか。やっぱりちょっとおかしな奴だ。そんなことを頭の隅で思っていた。当然、今考えるべきなのはそこじゃない。それは逃避だった。決して逃げられない現実から、逃げた振りをした。平静を保とうとした虚しい努力。
「あの坊っちゃん、仕事もしないでそのままだらだら親の金で暮らして死ぬつもりだったって話もあるらしいですからねえ。四国で受けた傷がよほど辛かったと見える」
「そうそう、死ぬつもりだったんなら」
 早く死にたいから。
 いつだったか、俺の問いにそんな風に彼が答えていた。
「それなら世間への償いとしてせいぜい俺達の役に立ってもらわんとなあ」
 その時は馬鹿にした。死にたいなんて、死に憧れるのなんて、そっちが子供だと。
 でもそう言うだけの理由がどこかにあったんだ。
「なにせ」
 だって彼は俺より大人だ。
 俺よりも長い年月を過ごして、俺よりもいろんな人や物事とぶつかってきたんだから。
「人を一人、自殺未遂にまで追い込んだんだ」
 きっとこの夜でもあのワインレッドの気障なシャツを着ているであろう痩せぎすの男は何てことないように言った。だから最初は俺も何てことないように聞こえた。意味は後から追いかけてきた。
「いや、利用されるだけじゃ罰として安すぎるか。いくら何でも」
 自殺未遂?
「出世の上での邪魔者もいいとこだ。理事長のお気に入りだか親類だか何だか知らんが、早いところ学校を出て行ってもらわんとな」
 自殺。自分で死ぬこと。追い込んだ? じゃあ、死なせる? 殺す? 誰を?
 誰が?
「ああいう罪悪感の欠片もない、周りの迷惑を省みない厚顔無恥で唯我独尊のお坊っちゃんにはこれくらい痛い目に遭う方がいいんだ」
「ええ。違いないですわ」
 答えに、俺は辿り着きたくなかった。この人達が言っていることが本当かどうかなんてわからないのに。いや、それがただの真っ赤な嘘で嫌がらせの冗談だとしても、断固拒否した。
(この人達、は)
 思考でさえも呼吸が苦しい。
(何、を、言ってるんだ)
 誰を陥れようとしてるんだ。
(そんなの、決まってる)
 松山のお坊っちゃんその人。俺のすぐ傍にいる人。
(坊っちゃん)
 はあっと息を吸ってそのまま飲み込む。そして拳を握った。動揺を落ち着かせる為に。
(何も知らない振りをして、何も聞いてない振りをして)
 こんなところで、例えばあの二人に襲い掛かったところで何になる。二人が坊っちゃんに何かしたと言う確かな証拠もないし権利もない。
(今はここから離れよう。離れなくちゃ)
 それが大人の決断だ。多分。坊っちゃんが黒板の落書きを消せと命じたあの日のようにするしかない。
(とにかく、これ以上)
 焦りを煽るように、嫌な汗が拳に滲んでいく。
(この二人の話を、聞かせるわけにはいかない)
 それはどこか本能が察知したような危険だった。拳を解いて、坊っちゃんと美禰子の手を取って、一目散にここから離れよう。
 そうしようと思った。その瞬間だった。

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