日常と非日常を繰り返し、ようやく新しい生活に慣れてきた。高校の授業にも慣れてきて、クラスメイトや先生の名前も時間割も少しずつ覚えてきた。
「めっしだめしだー」
「あ、俺もパン買いに行かないと」
 与次郎の背中を追いかけ教室を出た。およ? と首を傾げる与次郎。
「いつも弁当なのに珍しいな」
「ちょっと、寝坊してな」
 ストレイシープの一件は、慣れ始めたと言っても、体力は無尽蔵ではないので俺の日常生活に少々、支障をきたす。まあ、寝坊したり授業中寝たりすることは、どの高校生もあるだろうけれど。
 弁当は何てことはない、冷凍食品や夕飯の残りを詰め込んだシンプルなものだ。朝に適当に用意するのだけど、今日は寝坊というわけで、購買のパンを頼る。
「早く行かねえといいモンなくなっちまうぞー。急げ急げ!」
「俺はいいよ別に、余りもんでも」
 そうか? と人の顔をじろじろ見て別れの言葉もそこそこに購買に駆けて行く与次郎を見送った。購買は食堂にある。食堂の方がいいメニューが揃っているのだが、教室で食べようと約束しているから、今日はパスだ。
(いつも外食だったらラクなんだけど、結局飽きるし、金もかかるよな)
 たまにスーパーの惣菜をおかず代わりにしたり、出前を取ったり、ファストフードを買ってきたりすることもあるけど、外食は一度もしてなかった。インターネットで調べたレシピを見ながら見よう見真似で作る時だってある。大抵は微妙な感じなのだけど、美禰子は美味しいと言ってくれる。それが嬉しい。勿論美禰子の手料理だって、見た目はちょっと悪くて、たまに微妙な味のこともあるけど、全然悪くないのだ。
 それがかつて健三さんも味わっていたことを、ことさら気にし過ぎなければ。
(それに一つ屋根の下、女と住んでるなんて親父に気付かれたらやばいしな)
 財布をお手玉のように弄びながらそう考えたが、俺は足を止める。
(けど、別に、気付いたからって)
 財布がずしりと重く感じる。大して入っているわけじゃないのに。
(こっちを見に来ることなんて、あるんだろうか?)
 いつも父は忙しい。そして俺のことを、あまり好いていない。
(……今さら、悲観するようなことじゃあ、ないけどさ)
 俺も父をあまり好いていない。利害の一致で、今のままでいい。だけど、どこか空しく、寂しい。俺がまだ子供だからだろうか。それとも、この感情は大人であっても、変わらないのだろうか。
(いいよ)
 幻想の父の背中に、吐き捨てるように言う。この言葉さえも届かないだろうけど。
(俺は一人なんだ)
 あくまで一人でここを生きる。
 おかしなことだらけの現実でも、願いの叶わない日常でも。
(想いの、届かない世界でも)
 そう思想に耽っていたら、三四郎、三四郎! と俺を呼ぶ声がどこからする。女の声、美禰子の声だった。さすがに驚いて周囲を見回し、傍の窓を見てあっと叫ぶところだった。
 空飛ぶ美禰子が窓をこんこんと叩く。急いで開けて、引きずり込む。
「いったいなあ」
「馬鹿! 誰かに見られてたらどうすんだよ!」
 幸い、本当に幸い、教室から離れていたお蔭か人はいなかった。階段の近くである。
「ごめんね。でも、はい、これ」
 美禰子が微笑みながら差し出したのは見慣れた弁当箱の収納バックだった。掌に載せると温かい。
「今日忘れたんだよね。それで、三四郎の真似して作ってみたんだ」
「作り、たて?」
「もっちろん。あ、大体は冷凍食品だけどね」
 温かさを掌にじっと感じる。さっきまでの陰鬱な雰囲気は、その温かさにすっかり姿をくらましてしまった。今は窓から見える青い空と、美禰子が作ってくれた弁当と、そしてその美禰子の、ちょっと得意げな微笑みさえあれば、もう、何もいらなかった。
 健三さんも、こんな気分を感じていたんだろうか。
 とても素直に、何の嫉妬もなく、そう思う。
「おい……女の子がいるぞ」
「マジ? うわ、ほんとだ!」
 余韻に浸りつつ、ゆるゆる現実に戻ってきたら。
「見慣れない女子がいるってよ! 三組の奴と」
「どっちも、誰だ?」
 もう、遅かった。
 購買からの帰りか、複数の生徒が食堂へ通じる廊下から現れ、囃し立てていく。そのお囃子はたちまちその棟の一年のクラスに広まっていく。それはもう、光より速いんじゃないかと言うくらいに。
「女子がいると聞いて!」
「うおっ! マジだマジだ!」
「見た目ロリっぽいぜ」
「構わん! 女子だ!」
 あとは言っても言い足りないほどの、阿鼻叫喚である。あれよあれよと人がこぼれだし、俺の友達やクラスメイト達もこっちを見ていた。
「女の子女の子!」
「何でだ何でだ?」
「もしかしたらよお、この高校が共学になる前振りなんじゃねーか?」
「いわゆるフラグってやーつ!」
「それ、なんか漫画みたいな展開じゃねえか! そういうの待ってたぜー!」
 男子校に入ってまだ一か月も経ってないだろ。何故それほどにまで女子に飢えているんだ!
「な、なんか、やばいことになってる、ね?」
「……殊勝な発言じゃねえか」
 微妙に引きつったものであるものの、美禰子は実に面白そうに笑っていた。堪えられない、とばかりに。これから先、俺に降りかかる質問・嫌疑・羨望の眼差しあるいはくだらない憎しみを、ちっとも予想してはいないんじゃなかろうか。
「くぉら! 三四郎! お前、その子誰だ!」
 与次郎が騒ぎを聞きつけたのだろう。食堂側の通路から、猛烈な勢いでこちらに向かってきた。
 なるほど。
「ふ、ふふ、はは」
 人間、真にピンチに陥ると、変に笑いたくなるものらしい。ぴくぴく動くのはこめかみではなく、表情筋。
「かくなる上、は」
 この場を切り抜ける選択肢は、ただ一つ。
 単純だけれど、でも。
「……逃げろおっ」
「いえっさー!」
 たった一つの、冴えたやり方。
 俺は美禰子の手を掴んで、とにかく近場の階段を猛スピードで駆け上がる。たった三階程しかないのにやけに長く感じたのは逃げていたからか、美禰子が隣にいたからか。その小さな掌をどさくさに紛れて握ってしまったからか。
 もしかしたら、何か特別な魔法でもかかっていたのかもしれない。

  
せんせいのまほう 2に続く

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