黙々と、課題をこなしていく。最初は範囲が比較的狭い国語の現代文から潰していく。漢字を書きとり、本文を読み、選択肢を選んで時には記述していった。ワガハイはつまらなさそうに問題の評論文を読んでふむとかほうとか小声を出していた。決して迷惑ではない。
「なあ、どんな魔法が使えるんだ?」
 俺はページをめくりながらそう訊いてみた。
「信じんというとったわりには、食いつきはいいもんだな」
「目の前で見せられたらそりゃな。話は違ってくる」
 しかしワガハイは特に何も言わない。ただ机の上で寒そうにぎゅっと身を縮めただけだった。その所為で足あたりの毛がもこっと浮き出る。何だよ、と頬をやや膨らませたがすぐ萎む。少し拍子抜けして課題に戻った。次は小説の問題で、本文を正確に読み取ろうと頬杖をつきながら、半分読んだ辺りのことだった。
「実際、もう吾輩の力は微々たるものなのだ」
 藪から棒になんだ。それで大した魔法は使えないということを言いたいのだろうか。でも、さっきの布団を畳んだ魔法は素人目にもすごかったし(素人だし、どんな瑣末なものだってすごいもんだろうけど)ただ長く生きる為にワガハイがあらかじめ持っていた魔力を全て寿命に還元したわけというわけでもなさそうだ(大体それだとさっきの魔法の説明がつかない)などとつらつら思っていると、
「しかし、気配くらいは余裕で読める」
 そう言葉を続けた。気配? と首を傾げると何か物音がした。縁側の方からだ。
 昨日から脅かされっぱなしなので今更物音くらいがなんだという状態だったので縁側の方を向く。障子は申し訳程度に開かれているが、正直、開いているのか閉まっているのか判然としない。
 何かの影が、右側に出来ている。少し動く。
「そこにおるんじゃろ、美禰子」
 少しだけ動いていた影が大袈裟に動き、その影の主がほんの少し開かれた障子をさらに開いた。これで十分開いた障子と言える。

 影の主は女。そう言うよりも、少女という形容が相応しい。小さいのだ。肩までのボブヘアー、白過ぎない肌、黒いワンピースにぱっちりと大きな瞳。あらゆる要素が少女である。

 ミネコ、と俺は音を耳の奥で繰り返す。
 昨日の出来事は夢じゃない。だから池の上に浮かんでいた人の姿も、夢じゃない。

「あははーばれちゃったー」
 美禰子と呼ばれた少女は破顔して首を掻いた。少しは悪く感じているような顔は冗談じゃなく可愛かった。
「こいつも、魔法使いなのか?」
 俺はワガハイを見ながら美禰子に人差し指を向けるとあーっと言いながら美禰子は部屋の中に入ってきた。
「こいつとはひどいなー」
 美禰子はぷぅと頬を膨らませ、腰に手をつき怒っていますとアピールした。子供っぽい態度が彼女の外見に似合いすぎている。
「そうでーす。私は昨日も言ったけど、夏目坂美禰子っていう魔法使いでーす」
 言い終わるなりよいしょっと、と座り込んだ。俺はいよいよ辟易する。どう動けばいいかわからない。ワガハイはうっとおしそうな目で美禰子を見、美禰子は物珍しそうで妙にわくわくした目で俺を見、俺はどっちを見ればいいかわからずあさっての方向を見る。
 美禰子の出現で俺の現実がますます歪みだした。というよりも状況判断に焦り出している。この場合にはこうしたらいいというテンプレのようなものがなく、緊急マニュアルみたいなものもまた無い。つまり相当困っている。何をどうすればいいのか。
「まったくお前は。何しに来たんじゃこんな昼っぱらから」
「えーと、暇だったから遊びに来たんだよ」
 ワガハイの声でようやく落ち着いてくる。それでもまだ現実は荒削りだった。喋る猫がいて魔法使いだと名乗る少女がいる世界は荒削りどころじゃないのかもしれないけど、こうして確かにあることなのだから仕方がない。俺はやるべきことをやって、この現実となんとか付き合っていこうと課題に向き合った。
「ね、ね。何してるの?」
「課題だよ……今度から高校生だから」
 美禰子は気安く近づき問題集を覗きこんできた。問題文を読んでいるようだが、俺は自分の下手な字を見られるかと不安になる。でも、結構食い入るように読んでいる。問題文の小説が気に入ったのだろうか。俺は問題集を閉じて美禰子に渡した。
「読めば」
「え……いいの? 読んでも?」
 と言いながらも早速ぺらぺらとページをめくっていた。
「へー、F(ラージエフ)の世界の読み物ってこんなんなんだー」
 嬉しそうな声を上げて美禰子はさっきの続きだろうか、大人しく座って読み始めた。それを見てから俺はあんまり考えなくても機械的に解けそうな英語の文法の問題集を開いた。ワガハイは特に何も言わずに、さっきから同じ体勢のままじっとしていた。寝ているのかもしれない。

 ところで、俺は恥ずかしながらあまり女と関係を持ったことはない。告白されたこともないししたこともない。バレンタインデーにチョコを貰ったことは数度あるけど、それ以上を求めたり求められたりということはなかった。俺は健全な男子だ。
 母の記憶はあまりない。かすかな記憶があるだけで、うんと深く思い出さないと具体的なことは言えない。母じゃなくて、義母の記憶はある。でもそれは女性的な思い出でも母性的な思い出でもなかった。ただ人間臭い思い出だった。総じて嫌な記憶だった。俺にとってその時の母親は義母しかいなかったのに、何度も本当の母は誰と訊く。困惑して俺は義母を指さし続けるのに、納得されない。また義母が誰かの悪口を言っていたと思ったら、その人がいざやってくると、悪口が出たその口が乾かないうちにその人をおだてる。嘘つきだ。そう言ったら、ひっぱかれた。痛かった。
 俺は女に、嫌で、痛くて、どうでもいい思い出しか持っていないのかもしれない。
 俺と同じ年代の男子だったらやれどこそこの子と付き合って、どこまでいったのだとか、ナニをしただとか、いろいろえげつない話が出るのが当然だ。それに保健体育の授業だって受けてたのだし、何もわからないわけじゃない。俺だって耳にしたことは何度もあるのに、俺自身まるでそれらを毛嫌いするように――実際、そういう話は好きじゃなかったけど――女っ気がなかった。きっと他の男子からすれば、そして大人からすればこういう思春期の男子は異常なのかもしれない。だけどこれが俺なのだから仕方がない。こういう思春期男子も世の中にいることはいるのだ。
 多分俺は、女が怖いんだろう。義母に植えつけられたトラウマというものだろうか。

 それでも、あんな夢を見る。
 たった一人、森の女の夢を見る。

「へー、Fの学生さんってこんな問題やってるんだー」
 気づけば美禰子がまた問題集を覗き込んでいる。考えていたことがことだったので俺はわあっと思ったよりも大声を出してひるんだ。美禰子はなんてこともないような顔をして俺を見た。どうしたの? とでも言わんばかりな、ある意味呑気な顔をしている。
 今度は英語に興味を持ったのだろうか。また英語の問題に向き直る。
「あ。……これ間違ってるよ。本当は2・4・1・3・6・5の並び」
「……はあ? ええ?」
 そう言われ少し腹が立ったので解答集の答えと参照してみると、果たして違っていた。美禰子が言った解答が正しい。
「ほらねー」
 解答集を見て言ったのだろうか? しかし解答集は少し離れたところに置いてあった紙袋の中にずっとあった。取りに行っていたら俺はそれにきっと気付いていた。魔法でも使ったか? 俺の疑問は顔に出ていたようで彼女はぷぷ、と笑う。
「やだな、魔法なんて使ってないよ」
「じゃあ何で魔法使いの世界出身のくせに英語が解るんだよ。英語があっちにあんのか?」
「まあ、なんというか」
「つまらんことは気にするでない」
 ようやくワガハイは口を開いた。何か説明してくれるのかと思ったがそれきり黙っている。うるさくて眠れないから静かにしろということだったのかもしれない。
「でもねー、これはあってるよ。これとこれも。あれ? なんだ、このページここ以外全部あってるじゃん」
 惜しかったねえ、と美禰子はひどく残念そうに言う。表情も俺の代わりに悔しがっているかのようだった。ひどく鮮明だった。でも、沢山の正答を数え上げていた表情の方が、好きだった。

 にこにこして、いきいきしている、笑顔。
 障子は開きっぱなしだけど、風は感じられない。だけど、春の風に当てられたかのように身も心も温かくなる。

「私が全部やったげよっか?」
「いい……これは全部、俺がやんなきゃいけねーの」
 少しだけ、美禰子の目が開く。何か特別に綺麗な風景の場所に出た時に、自然に顔はそうなる。そんな感動を彼女が抱いていたかは知らない。けれど彼女はこう返した。
「そっか。そうだね」
 一際、目を細くして。
「えらい、ねっ!」
 その単純な言葉が、俺には嬉しかった。
「これくらい、当然だろ」
 ぶっきらぼうに返したつもりだったけど、微笑に緩む頬が、変にくすぐったかった。
それからまた俺は課題に没頭した。美禰子は他の課題の文章や教科書を読んでいた。教科書は真新しく、そのことを気遣ってか、わりと丁寧に扱っている。
 三時近くなったので俺は美禰子におやつを持ってきた。ワガハイはいつのまにかのそのそ移動して、縁側で丸くなっている。寒くないんだろうか。
「いっただっきまーす」
 いいの? と言いはしたが、やはり建前で元気よく彼女はクッキーに齧りつく。俺ももそもそと食べる。
 俺達は互いのことを知らな過ぎるが、こうして美味しいものを共有していることが何よりも重要に思えた。何を話したか詳細を覚えていない。この問題はどうだったとか、この小説は面白かったから解いてみろと課題の範囲外なのにつきつけられたりとか、話は互いのことには入り込まなかった。
 突然、あっと美禰子は頓狂な声を上げる。
「そういえばまだ知らなかった、ううん、聞いてなかった、あなたの名前!」
「俺の名前?」
「うん、何て仰るの?」
 仰る、なんて。そんな丁寧に聞かれたのは初めてな気がした。
「……牛込、三四郎」
 だから俺も丁寧に返そうと思ったのに、どこか緊張して無愛想な感じになってしまった。美禰子の方は気にしてないのか、ぱっと笑う。
「さんしろう。響きがすてきね」
「そうか?」
 こんな、適当につけられたような名前なんてださいだけだと思う。苗字なんてどんくささのある牛がついてる。そして三番目なのか四番目なのかわからない名前。
「森の中、小川がさらさらと流れていくような響きだわ」
「……ポエムみてーだな」
 さんしろう。心で繰り返す。ちょっとだけ、いつもと違う響きがした。さんしろう。なるほどS音が続いて言われてみれば清らかな気もする。
「私の美禰子って字はちょっと難しいの、「ね」が」
 難しいって言うか画数が多いんだけどね、そうはにかむ。何気なく聞いていて待てよ、と思う。
「っていうか、漢字があるのか、魔法の世界は」
「魔法の世界……f(スモールエフ)だけどね」
 スモールエフ? 首を傾げる俺に、それはともかく、と手を叩いた美禰子は取り合わない。
「名前があることはいいことだよ。ワガハイなんて名前がない、なんて言うんだから」
「名前がないって……ワガハイって名前があんじゃねえか」
「ね、変なの」
 尤も、俺以上に変な名前ではあるが。ワガハイの方をちらりと見る。寝ているのか寝てるフリをしてるだけなのか、尻尾も耳も動かさない。
 美禰子は時々思い出したようにまじまじと俺の顔を見た。自然と俺も彼女の顔を見ることになる。するとはにかんで、クッキーを食べる。そんな一連の動作は全然関係ないことだったが、俺は自然と美禰子と、夢の中の女を結びつけた。
 森の中を流れる小川のよう。そう言われた俺の名前。思えば彼女は湖畔のような、静謐と深さを湛えた水の傍にいたような気がする。水のほとりにいる、静寂に眠るような森の女。

 あの、濃密な霧に包まれた森の中で、姿を決してはっきり現わさない女性。

 それは美禰子が少女と言う方が相応しいように、少女と言った方がやはり、相応しかったから。

 2
はじまりのまほう 3に続く
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