俺は布団の中にいた。春になっても未だにそのぬくもりが恋しい布団の中をもぞもぞと動くと、ぬくもりからもれた部分がたちまち外気に怯えて寒くなる。うっすら目を開いて辺りを見回す。昨日眠りについた場所だ。太陽の光がどこからか届いている。多分そっちが東だな。
昨夜は何があったんだっけ。俺は記憶を探る。そうだそうだ、知らない女が池に浮かんでいて、そしてワガハイが人間の言葉を喋っていた、という夢を見たんだった。なかなか出来た夢だったな。感じた恐怖がやけに生々しかったし、眠りの中なのに眠気とか感じてたし。いつも見る夢の強化版ってところかな。そう、おぼろげなもんでなく、少女が結構具体的な姿だったし。だけど結局俺は彼女の顔をよく見れなかったわけだし。
今、何時だろう。寝る前に携帯電話を近くに置いたはずなので、俺は時刻を参照しようと起き上がろうとした――
が、起き上がれない。
何か、俺の胸から鎖骨の辺りにかけて、異物感を感じた。あえて言うならば、重石が乗せられているのだ。何でこのことを真っ先に感知できなかったんだ? それに気づいた途端、急に息が苦しくなった。妙に大きくて丸い生暖かい重石が俺の気管をゆっくり、あえて痛みは与えず、いじわるするように押し潰している。その重石は動いた。俺の鎖骨に近い方に、局所的に足踏みをするようにだ。
俺は恐る恐る、首をもたげた。一体何が乗っている? もし重石のような物体だとしても、何で動く?
ところが現実は俺のささやかな恐怖を笑うためにあるらしかった。
「ワ、……ワガハイ?」
俺と白い老猫の顔がばっちり向かい合う。
そう、なんてことはない――重石は俺の体に乗ってきたワガハイだったのだ。猫はある程度重量はあるし、暖かいし、前足は爪とぎをするみたいに動く時がある。それはともかく重さは結構きつい問題だ。よく今まですやすや眠っていられたと思う。俺は白猫を引きずり降ろして時間を確かめるため布団から抜け出そうとした。
「起きたか。今は十一時三十分を過ぎたところだ」
ありがとうなどと言い返せる場でなかった。だらしなく俺は口を開けていた。寝起きだというのに目もかっ開いていた。
喋った?
ワガハイが喋った?
「しゃ、しゃ、しゃべ」
俺はなりふりかまわず布団を飛び出した。その拍子にステンとワガハイはうずくまっていた場所から転がり落ちたが、見事な身のこなしで着地する。
「やっぱり、喋ってる!」
昨夜の出来事が夢じゃないということの何よりの証拠だ。完全に覚醒している俺の意識も夢ではない証拠だ。夢じゃない、現実だ――という焦りを感じさせる分泌液が口内にべたべたと広がっていく。動揺する俺にはおかまいなしといった風のワガハイは優雅に前足を舐めている。やがて出来の悪い子供をなだめる教師のような口調でこう言う。
「三四郎は、もう最後に会った頃のような子供ではないだろう」
子供に言うようなくせして、子供じゃないだろうとは笑える。
「分別が十分ついてる年齢のはずだ」
「猫は人の言葉を喋ることはできない、ということがわかるくらいにはな」
十六歳で世の中の理全てに分別がついているとは思えないという意味合いでそう返したのだが、ワガハイはまるで肩をすくめるような動作をした。ため息つきだった。猫の姿でいるのが奇妙なくらい、ワガハイは人間臭い。
「吾輩が言っているのは、あるがままを受け入れる程度の分別だ」
「……言葉にすると簡単だけど、そういうわけには、いってないと思うぜ。少なくとも世の中一般の高校一年生男子は」
「お前は聡明なのだ。大丈夫」
こいつ、俺の成績表を見て言ってるんだろうか? 俺は漱流高校に合格したことは事実だが、聡明とは程遠い気がする。まだまだツメが足りない頭をしている。要するに成績はそんなに悪くもないが、そんなに良くもない。だから与次郎に脅かされたり、こんな馬鹿げてる現象に真面目に付き合っている。
そう思い至ると何だか全てが馬鹿らしく思えてきた。かなり瞬間的に、優秀な兄達の姿が脳裏に浮かんだ。それから痘痕の辺りが痒くなったので掻いていたら、唐突にもう全てがどうでもよくなった。だからこう言ってやった。
「……わぁった。こうして猫が、喋ってんだもんよ。これが現実だろうが、俺の精神錯乱だろうが何だろうが受け入れる」
そうか、と顔を一撫でし、ワガハイは居住まいを正した。
そして、言う。
「吾輩は魔法使いだ」
「……やっぱ俺寝ぼけてるんだな。顔洗って歯ぁ磨いて飯食って課題やろ」
「オイコラ年寄りの言うことはちゃんと聞かんか」
俺の鋼鉄のような「聞かなかったことにしようとしたふり」は老猫とは思えない瞬発力で繰り出された猫パンチによって粉々に砕け散る。猫なら爪使えよな。そっちのほうが爽快に痛いし。猫の打撃は地味に痛い。少し爪が見え隠れしていて、それが攻撃のスパイスになるためだ。
宣言したとおり顔を洗って歯を磨いて飯を作った。いただきますと言った時にちょうど十二時になったようだ。昼の番組でお馴染みの曲が流れてくる。
ワガハイはずうずうしく机の上にいた。
「受け入れると言ったくせに」
結局ワガハイは何も変わらなかった。毛がふさふさしているのも人を小馬鹿にしたような顔も声も、現実の暗喩として無音で俺に押し付けてくる。
「だってよ」
俺は麺をすする。インスタントの焼きそばだ。
「魔法使い? 猫が? ばっかばっかしい」
魔法使いがまず笑える。この世界は、ごくごく普通の高校生・三四郎つまり俺というパーツが示すまでもなく、漫画や小説や映画じゃない、あらゆるファンタジーが一定の距離を置く現実だ。むしろ現実の味方である、俺の理解を越えた科学技術や物理学なんかがよっぽど魔法じみている。また、魔法使いは人を指して言うべきだろう。
「魔法使ってみろよ。どうせ出来ないんだろ」
ワガハイの顔を横目で捉えた。しかし相変わらず涼しい顔をしている。前よりも俺のことを馬鹿にしているような目つきに少し腹を立てた時だった。
ふわり、と風が俺の前髪を動かしていった。どこか窓を開けていただろうかとワガハイから目を逸らすと銀色の光が、俺が今見えるすべての物を照らした。優しく、だけどはっきりと。
ワガハイの方に向き直る。今度は俺の顔や体が銀色の光に照らされる。ワガハイが座っている所に円が浮かぶ。ただの円ではなく、様々な模様や見慣れない文字も浮かんでいた。一般に魔法陣というものだろう。何かもぐもぐワガハイの口が動いた。すると、まだ畳んでいなかった布団が銀色に光った。少しは重たいはずの布団がふんわり羽のように浮き、ぱたぱたと初めから折り目が付いていたかのように自動的に畳まれていく。そしてきちんと綺麗に畳まれた布団はすぅーっと部屋の片隅に飛んでいった。光はその場で消えてしまう。魔法陣もなくなった。
「起きたらちゃんと片づけておけ」
そう言ってワガハイは机から降り、うーんと伸びをする。また俺は、口をだらしなくぽかんと開けていた。「現実」なんてものは、葉が風に吹かれるように揺らいで、一気にその姿を変えてしまった。
「そういえば……俺、縁側で気を失ったんだけど」
「布団を用意したのはお前じゃろ」
「運んでくれたのか、ワガハイ」
そうじゃ、とでも言うようにぱたり、とその尾が揺れる。それからちょいちょい、と前足を舐めているその仕草を見て、俺はぱちぱち瞬いた。布団だけじゃなく、人間一人分も運んでしまったのか。
ただの猫だ。だけど、魔法を使った。
当たり前のように展開されたそれこそ「魔法」だった。伸びはしたもののそれは猫だからであって、ワガハイは全く疲労していないように見える。今の魔法は赤子の手をひねるなんてもんじゃない。自分の指で数を数えるくらいに簡単で、あっという間だった。きっとそうだ。
「長く生きてんのも魔法……なのか」
尻尾をぴょこんと動かしてワガハイはこちらを向いた。そしてふふんと笑った。
「ハイクラスの魔法使いは魔力を寿命に還元することも出来る」
紛れもなく、ワガハイはずっと、「ワガハイ」なのだ。
そして俺が一桁の歳に見たっきり、外見が老猫なのは置いておくとしても、ずっとずっと変わっていないくらいに、寿命も長いらしい。
「じゃあ……ワガハイ」
密かに息を飲み、訊いた。
「お前、いくつなんだ」
ワガハイはそれには答えず、そっぽを向いた。尻尾も動かさなかった。触れられたくないことなのか、はたまた猫の気まぐれだろうか。しばらくするとこちらを向いた。ワガハイは変わらず小憎らしい笑いを浮かべている。課題、あるんじゃろうと器用に笑みを保ったまま訊いた。
猫でも笑うのだ。ワガハイがそうなだけかもしれないけれど。
「吾輩も手伝ってやる」
おう、と俺が漏らした生返事は仔猫の鳴き声よりももっと頼りなかった。