それからまた掃除を進めて、一番星が見えてきたくらいの時間に与次郎は帰っていった。春とはいえ、まだ寒さが残る頃で、窓や縁側の雨戸を明け放っていたので空気は新鮮だがそれ故寒い。あれだけの陽光が嘘のようだった。その陽光にあたっていたワガハイはどこに行ったんだろう。この無人の家にいたものの、しばらく野良生活みたいだったから、どこかの家にエサでも貰いに行っているんだろうか。
急に俺は眠気を感じ、夕食を食べてから適当な場所に布団を敷いて眠った。眠って、そして見た夢は最近よく見るものだった。
それが何を暗示しているのか解らない。いや、あまりにもあからさま過ぎて、かえってその真意が測れないといったところだ。
俺は欝蒼とした森の中にいる。それはある絵画の中のようで、鼻をひくつかせれば油絵の具の匂いでもするんじゃないかというくらいだった。静かで、何の動きもない、静寂を具現化した森は孤独な色相で俺を包んでいる。
俺の目線の先には、背を向けている女性がいる。女性というのには憚りがあるかもしれない。その女性は見るからに小柄で、少女という呼称の方が相応しいくらいの体型だからだ。俺と彼女の距離は少し離れ過ぎているから――頻繁に見る夢でも、具体的な描写は出来ない。せいぜい肩にかかるくらいの短髪で、黒い服を着ているということだろうか。ただ不思議なのは、彼女が少し顔を動かしてこちらを振り向こうとする時だけ、少しだけよく見えるのだ。夢だからだろうか。しかしそのような幸運を以てしても――俺は彼女の顔を知らない。
いつも、もうちょっとで見れる、という時に、とてつもない金色の光が襲ってきてその夢はおしまいになる。或いは俺が目を覚ます。ちなみに、今回はそこで目を覚ましてしまったパターンだ。光が襲ってくる時は、体や顔の輪郭がすうっとぼやけてしまい、彼女を飲み込んでしまう。なんと凶暴な光だろう――少しくらい見せてくれたっていいのに。
ありがちな解釈だったら、それが運命の人との出会いを意味しているのだとでもいうのだろう。女の子の場合だったら、白馬の王子様っていうところか。が、そんな夢占いの結果は安っぽいし、いくらなんでも率直過ぎる。
わからないものを無理に解釈しようとするから味気ないし、実際つまらない。わからないなら、わからないままでいい。俺は寝具を体に抱きながら再び眠りにつこうと目を半分閉じた。俺の進路は男子校、男色ならいざ知らず、男女のロマンスが始まるようなことはないだろう。
だけど、もしわかるのなら――あの少女は「何者」なんだろうかということを知りたい。純粋な興味だ。誰で、どんな子なんだろうなと。
眠りに沈んでいく。夢と現実がゆっくり混ざり合おうとする。明日は起きたら入学前の課題を片付けないとな――そう思った時だ。
喋り声が、聞こえた。
閉じかけた目をぱっと開く。ボソボソとノイズのように聞き取りにくいが、それは自然の音ではない。人間が出す音――声に違いない。ラジオでも消し忘れただろうか? テレビでもつけたままだっただろうか?
いやそもそも……俺はラジオもテレビも、電源を入れただろうか?
家の外の会話が聞こえているんだ。そう言えるかもしれない。だけどこの屋敷は広い。塀だってあるし、いくら静かな夜とは言え屋内にいる俺の元まで届くのには無理がある。
どく、どく、と、胸が痛いほど鼓動が高鳴っていく。その会話に混ざりたいとでも言うように。
眠気と、恐怖と、好奇心が三つ巴を起こし――制したのは好奇心だった。恐怖には、この家には俺以外誰もいないという確信を得るという約束、眠気には明日は好きなだけ寝ていいという条件を提示した。どうせ、誰もいない。今日与次郎に脅された時のことがまだ尾を引きずっているだけだ。それに、好奇心を満たせば、俺は満足に安心して眠れるじゃないか。
そのボソボソと喋る声はどうも縁側の方から聞こえているようだった。縁側と俺が今寝ている場所は割と、近い。もっと遠くで寝てりゃよかったな。舌打ちしそうになるが聞こえてきた声に舌を噛みそうになる。
「それでねえ、今度お芝居でも見に行ってみようかなーって」
――ありえない。全身をぞわぞわと浮遊感に似た感触が覆う。気持ちの悪い汗……というよりは分泌液がさっと、背筋を冷たくする。
女の声。
確かにした、確かにした。電波に乗せられているようなものじゃなく、そこに女がいてその声帯を震わせた、肉声が確かにした。
「お前が芝居か……ちゃんと理解できるかどうか、吾輩には甚だ疑問である」
そして男の声。年配の声だ。これもまた電波に乗ったようなものでも、テープに吹き込まれたようなものでもない。俺は近づくかどうか戸惑う。誰もいないはずなのに、人の声がする。恐怖に負ける。たちまち春の寒気は恐怖の色を纏い俺の肌を撫でていった。気持ちの悪い液も同様に、背筋だけじゃなく体中の毛穴から吹き出てくる気がした。
いやいやしっかりしろ。ただの幻聴かもしれない。五体満足で健康優良児、精神も健康そのものの俺がそんな馬鹿な現象に陥るわけないじゃないか。けれど。俺は唾を飲む。長年誰も住んでいなかった館、荒れ放題の庭、与次郎の三流の脅かし方やワガハイが変わっていないこと、俺の周りはいろいろと人を怖がらせる要素に溢れていた。
だが不肖三四郎、これでも男子。ここは恐怖に負けるよりも、合理的な判断――恐怖との勝利を望みたいところだ。
縁側に、少しだけ顔を出す。
縁側の庭には池がある。池と言っても勿論、人工池だ。それほど広くはないが、一涯に狭いともいえない。今日見た限りでは、長い間ほっといておいたため、いろんな虫や生物が棲みかとして使っていたみたいだった。学校のプールを掃除しないでおくと、どす黒くなっていく。ちょうどそんな感じで、池はお世辞を言うより、見たままを直球で言った方が無難なくらい汚かった。だからだろうか――夜、俺が少し目をやっただけでも、何かが湧き上がってきそうなくらいの恐ろしさを否応なく押し付けられる。
でも、今回はそんな恐ろしさなんか――忘れてしまうくらい、異様なものを見てしまう。
池に、女がいる。
声の主だろう。俺以外に誰か、いたのだ――しかし問題は彼女の立ち位置である。
水面の少し上。空中だ。
浮かんでいる。
足もとがほのかに光っていて、それがわかる。
浮かんでいる。浮かんでいる? 重力はどうした? どうして? なんで?
彼女の目線の先には猫がいる。猫――ワガハイだ。ワガハイ? 俺はさっきの会話を思い出す。男の方は、一人称に、「吾輩」を使っていたじゃないか。
でも――そんな。
猫が喋れるわけ、ないじゃないか。
「ん……?」
女がこちらを向く。月明かりがあったからだろう。俺は彼女の顔を見つめた。
目が大きく、顔は小さい。黒い服を着ていた。体は小柄で、髪は肩にかかる程度に短く――女性というよりは、少女。
「え? 人?」
少女の目が瞬いた。
「……ええ? うっそお!」
少女も動揺する。
「この家に? なんでなんで? あ、泥棒? ……って盗むものないか」
少女は照れたように笑った。首を掻く。
「失敬な」
足音を立てず、呆然としている俺のもとにワガハイがやってくる。俺は驚きで大きく開かれたままの目で猫を見る。
喋ったぞ。こいつ。
――人間の言語を。
ワガハイは、眉根を寄せたような苦々しい表情になる。くしゃみをする前の猫の顔に似ているが、やけに人間臭い。喋るから、そう見えるのか?
「まったく」
そう言い捨て、少女の方を見た。ふらふらと俺も少女を見た。見たけど――どんな表情をしてるか、解らない。
「ワガハイの友達? あ、私は夏目坂美禰子っていうの。あなたは――?」
何を訊かれたのかも、わからない。
そう何もかも、あの夢みたいに、黄金の光が襲ってきて――実際は光も何も無かったのだけど――いろんなものが見えなく、聞こえなくなってしまった。
俺は夢でも、見たのかもしれないな。