祖父の家には猫がいた。かなりの年数をそこで過ごしているようだったが、老猫というにはまだまだ体力もあり、よく食べ、よく運動し、そして猫だけによく寝ていた。俺の記憶にあったワガハイという奇天烈な名前の猫は、そんな猫だった。
 その猫は――最後に見てから何年経ったか数えても意味がないくらい、変わらない姿で俺の眼前に姿を現したのであった。
 琥珀色の目が俺をじっと見た。そしてワガハイは少し体をびくつかせる。落ち着きを取り戻した与次郎がこちらに来たからだったようだ。
「な、なんだ猫かよ……」
 驚かせんなよなと愚痴をこぼしながら与次郎は身を屈めてワガハイに触れようとしたが、大抵の猫がそうであるように、ワガハイは初対面の与次郎には毛も触れさずさっさと書斎を抜け出してしまう。さっきまで掃除を続けていたところで足を止めにゃあと鳴く。構わないで掃除を続けろ……ということなのだろう。大儀そうに与次郎は戻った。
「あの猫、なんだあ? なんっか、偉そうな目つき。野良っぽいぜ」
 実はその猫は幼い頃からこの家にいた猫で、何年か経った今も死ぬことなく、いや変わることすらなくいる猫だ――と、さっき俺を脅かした与次郎の要領で言えば与次郎に仕返しすることも出来たのだが、うやむやな生返事を出してやり過ごした。
 仕返ししようと思う以前に、俺の方が恐怖を感じていた。ワガハイはちっとも変っていない。「変わらない」ということが、時としてどれほど恐ろしいことか、いま俺は初めて感じた。期待できる変化が起こらない――あって当たり前の現象が起こっていない。言うなれば死ぬという運命に逆らっているといったところだろうか……。
 そして与次郎も言及したように、ワガハイには独特の、偉そうな目つきというものがあった。仔猫の時からそんな目つきだったと憶測で断言できる程、自然に備わっていた。猫なのに、人間をどこか小馬鹿にし、風刺するような――そんな目つきをしていた。
 しかし俺にとっては、そんな目つきでも恐怖と共に、どこか懐かしさを感じていたこともまた、否定できなかった。




 時刻は午後二時を回り、さすがに疲れ、腹も減ったと俺達は昼食を摂ることになった。ガスと水道と電気はもう通っていた。引っ越ししたんなら、と与次郎が荷物から取り出したるは案の定蕎麦だった。といっても緑色のパッケージの、インスタントの蕎麦である。
「普通引っ越し蕎麦ってのは、俺達が食べるもんじゃなくて近所に挨拶代わりに配るもんだぜ?」
「残念。最近では引っ越しの時に食べるもんだって勘違いしてる層が、ネットの調べだと過半数を超えるんだぜ。過半数だぜ過半数。法案通るぜー」
「何法だよ」
「引っ越し蕎麦法」
 やれやれと肩を竦める傍で与次郎はびりりとパッケージを裂いた。
 湯を沸かしてずるずると啜る。縁側の部屋で呑気な食事の音を立てる。鶯が鳴いた。日差しがぽかぽかと縁側にそそぐ。
 春だ。そうやって和んでいる時に、俺はワガハイの話題を持ち出した。ワガハイは埃を払った縁側でごろりと春の陽光に当てられている。ふわふわの毛が気持ちよさそうだ。
 与次郎は怖がらなかった。
「孫猫とか、なんじゃねーの?」
 そうは思えないんだよな、と俺は箸を動かす。
「俺が仮に十歳の時最後にあいつを見たとして、そこで子供が生まれてワガハイは死んだとしても、その猫は六歳にしかなってない。六歳であそこまで老猫な感じが出せるはずないんだよ」
 それに、と箸は特に何も掴むことなくつゆの海に浸かる。
「俺は、あれに別の猫の遺伝子が宿っているとも思えない……何もかもそのまんまなんだ」
「野良生活が長かったら、自然と顔つきはワイルドになってくもんだろ」
 けろりと言い与次郎は蕎麦をすする。
「六年野良やってるのと六年家猫やってるのとでは全然、骨格からも違ってくると思うよ俺は」
「そりゃあ――そうかもしれないけど」
「あの猫の母親は、そのワガハイって猫とそっくりうり二つだったんだ、うん。白猫と白猫の掛け合わせでは白が出る。遺伝の勉強は高校からだけど、どう考えても他の色素が混じるわきゃない」
「ワガハイ」
 そうだ、と閃いて猫の姿を探す。
「名前だよ名前。なんであの猫は名前に反応したんだよ?」
 縁側のワガハイの尻尾が少しだけ動いた。だけどこちらを見せる素振りはなく、その長い毛皮を暖めながらうとうとしているようだ。このような日向ぼっこに猫がまどろんでいる時、猫の名前を呼ぶと、猫はわざわざ振り返ることはしない。ずぼらなことに、尻尾だけを動かして反応する。
「ワガハイって呼んでたんじゃねーの、ジュニアも」
「猫は一匹だけ生まれるってもんじゃないぞ与次郎……」
「ワガハイ一号、二号、三号……」
 指折り数える与次郎にもういい、と俺は盛大にため息をつき、蕎麦のスープを飲みほしてまた大きく息をついた。
 多分、与次郎もいささか恐怖を感じたのだ。だからこんな風に茶化したに違いない。かと言って、俺は与次郎の意見に同意することはなかった。俺は――その猫をやっぱりかつてのワガハイだと思うことにした。そう単純に思えば怖くない。たまたま長生きをしているだけなのだ。
 縁側のワガハイが顔を上げている。俺と目があった。
 ワガハイは、その時確かに口角を上げた。あくびでもするのかと俺は思ったが、そうではない。もともと上がっているように見える猫の口がさらに吊りあげられて、それは誰の目を通しても――「笑っている」としか取れないような表情になった。地下の不思議の国にいる、あの猫みたいに。
 俺は少しの間あっけにとられ、影が針で押さえられてしまったかのように、身動きが取れなかったのだった。

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