気がつくと俺は坂を登り切っていた。
 今来た道を振り返ると、なだらかな坂は、ぼんやり春の陽気に当てられている。埃っぽい風が俺の背中を撫でていく。埃っぽいが、その風の中に確実に春を感じた。それも微かという値ではなく、かたまりで感じた。俺は来し方に背を向け再び歩き始めた。行く先にもう坂は続いていない。
 暖かい。鼻の頭を掻いた。幼少時の病気の名残として、無残な姿をさらしている痘痕に触れていることになるのだが、今日は俺もこの春の陽気に当てられてか、いつもはコンプレックスである痘痕に触れても気分が良かった。
 何度か角を曲がり目的地に進む。俺の記憶にあるいくつかの景色と符合するところが出てきているのは、目的地に近付いている証拠だ。見覚えのある木々や花、懐かしい匂い。随分古い記憶と一致する。
(なんだか、ガキの頃に戻ってるみたいだな)
 俺の傍に小さな俺がいる、そんな気分だった。
 目的地の門の前で、与次郎は下品な座り方をして体を揺らして何か考えているようだった。待っていてくれたか、と俺は苦笑する。
 俺を見るなり揺らしていた体を上手く動かして華麗に立ち上がった。
「おせえなー何してたんだよ」
 与次郎の開口一番がそれだった。
「俺の引っ越しじゃなくてお前の引っ越しだってのに」
「悪い。なんせここ来るの数年ぶりだもんよ」
 と言い俺は目的地を眺めた。
 祖父の遺した日本家屋は、やたら寂れた印象を纏いながら、春のうららかな午後にのんびり悠然と二人の前に門を開いていた。




 敷地内に入る。玄関までの道には雑草があちらこちら生えていて、無秩序だ。ごろごろ転がる石ころや、嵐や強風で飛ばされてきた小枝や葉やゴミ、その中で咲く花――名前も知らない、多分雑草なのだろう――と、まるでコンクリートジャングルに詰め込まれた人間達の模式図のようで、ここらへんも掃除しなきゃなと俺は疲れを先取りする。
 玄関の鍵を開け、家屋の中に入ると、思った通り埃っぽい空気が鼻孔をくすぐった。与次郎が一つくしゃみをした。
「んだよ、誰も手ぇつけてないのか」
「そうだって。だから掃除しに来たんじゃん」
「引越しの手伝いだろー? 荷物は」
「もう中にある」
「そん時に掃除もしとけばよかったじゃねえか」
 与次郎は呆れていたが、しかし未知の洞窟、遺跡、秘密の館に入り込んだ探検者――言ってしまえば子供のような瑞々しい冒険心もあるようだった。まだ玄関なのにきょろきょろと顔を動かすのに忙しい。俺は苦笑した。俺だってそう言う気分なのだし、与次郎のことを可笑しく言えない。俺はある種の懐かしさを帯びた目で玄関、廊下、少し先に見える座敷などを見渡す。変わっていない――幼い頃の記憶は太鼓判を押し、俺を進ませた。往来で感じた埃っぽい風と同じく、埃っぽい空気は、どこか春らしい。




 俺はこの春からめでたく漱流高校に進学することとなった。漱流高校は、俺の祖父の遺邸から程好い距離にあり、どうせ誰も住んでいないのならば、と一人暮らしをすることにもなった。どうせ、俺の家に俺がいてもいなくても同じことなんだから。
 漱流高校の他に、遺邸の近く――今しがた俺が登ってきた坂を越えた地域にはあと三つ高校があり、それらはいわゆる進学校と呼ばれるものだった。そもそも漱流を含めた四つの高校が、県内の偏差値別高校ベスト5にまるまる入る。そして、漱流高校は私立にして県内一番の難関校で――そして男子校であった。
「しっかし、花粉症よりハウスダストにやられそうだぜ」
「マスク必須、だな」
 横目でちらりと、俺は与次郎を見やった。与次郎はマスクをどこか喜んでつけている。
 権現坂与次郎は中学時代から俺の親友だ。ひょうきん者で、授業中もノートに落書きしたり消しゴムを飛ばして遊んでいたりした割には、テストでクラストップになったり、漱流にストレート合格したものだから、俺はあいつが意外と頭がいいことに感心したものだった。与次郎の家は漱流から遠い。が、俺のように都合よく、遺産の屋敷があるわけがない――与次郎は俺の家ほど裕福ではない――ので、あいつは至極当たり前に入寮することになっていた。準備はもうとっくに終わっていて、同室の先輩とも仲良くやっているようだ。私立なので設備も相当いいらしい。これから一人暮らしをする俺は、入寮したほうがかえって楽でよかったかもしれないと、気楽そうな与次郎をみてたまに思うのだった。


「あのさー、気になったんだけど」
「何?」
 髪も汚れるな、とバンダナを巻いて作業し始め、しばらく黙々と掃除をしていた。集中していたはずだ。しかし今与次郎に呼ばれて、そっちを見やるついでにざっと汚れ具合を見てみた。どうもまだ掃除は序盤というところだ。少し疲れを感じる。
「よくさ、こんな使わない屋敷残ってたよな。さすが、坊っちゃんというか」
 与次郎は唇の端を意地悪く曲げていた。俺は少し肩を竦める。
「お前んちくらいだったら、さっさとこんな使わない屋敷潰して、土地ごと売っちゃってるか、改築して誰かに貸してるか、駐車場とかアパートとか建てて金儲けとか、いくらでもある話だろ。こんだけでかかったら、税金とかも相当じゃね?」
 与次郎は何の悪気もなさそうに言った。皮肉めいた響きはない。俺は微妙な速度で頷いた。
 俺の家は、世間的には裕福の部類に入る。マクロ的に言えば、遺産として屋敷がまるまる一邸残される程度、ミクロ的に言えばその屋敷を掃除するため、友人にアルバイトさせその賃金を惜しまない程度に裕福だった。
 祖父が財産を成したのではなく、俺の父が成した。そうとしか俺は思えない。記憶の海にうっすら浮かぶ祖父は、とても今の裕福を生み出せる程ずうずうしい人間ではないように見えた。
 何故俺は、父に対し「思えない」としか言えないのか。
 そして父の仕事のことを、俺はよく知らない。与次郎の言ったように不動産関係に強みでもあるのだろう。父を継ぐのは俺ではなく、俺の兄だ。関係ない。
 何故俺は「知らない」「関係ない」としか言えないのか。
 簡単なことだった。遅くに生まれた子だというのに、俺は父に愛されていない。俺も、父に興味がない。金を使えるというところだけありがたいと思っている。
 たったそれだけのことだ。しかし、それらはこの屋敷の保存問題にはなんら関係はない。俺は、もっと具体的なことを答えなければならない。
「何度も取り壊そうとしたんだよ」
 持っていたハタキを肩に軽く担いだ。
「でも……そのたびに事故があったんだ」
 目を伏せた。そのため与次郎がどんな表情をしているか、俺にはわからない。
「関係者が原因不明の高熱を起こしたとか、人間関係にトラブルがあったってのも、何か聞いた覚えがある」
「ヒエー。何かピラミッドみてえじゃん!」
 与次郎はさっきよりも輝きを増した目で調度品や床や天井、壁を見つめた。普通ここは怖がるところなんじゃないのか? と俺が思っていると、壁から視点を俺に移した与次郎がまたふざけているような笑顔になる。
「……なんか、出るんじゃねーの」
 奴の笑顔は少ししぼみ、やけに真剣な顔つきに変貌した。俺はそう来るとは予想しておらず、思わず体を強張らせた。
「な、何も出るわけないだろ」
「おーおー、三四郎君」
 ニタァ、と意味ありげに口の端を上げる与次郎。
「お前……びびってんだろー」
 真剣な顔つきは徐々に意地悪な笑顔になっていく。小悪魔という表現が相応しい。与次郎は一歩一歩ギシギシと気味悪い足音を立てて、俺に近付く。俺は苦笑いをしながら一歩一歩ぽてぽてと間抜けな足音を立てて、与次郎から後ずさる。
「ちが、違うって。びびってなんか」
「んふふ」
 与次郎が右手のハタキをのろく頭上に掲げていく。何かの宣告が迫られるかのように近づいてくる。ハタキはギロチンのようなものだろうか。
 それとも、音を立てて俺を奈落につき落とす――魔法の杖だろうか。
 音が立つ! そして、魔法に包まれる――妄想がそう続くかに思えた。
 そう、それは、突然だった。何か物音が聞こえた。ビクッと与次郎の体が一瞬痙攣し、動作が止まる。物音がもう一度聞こえた。今度は少し大きい。今度はあらゆる動作を一秒たりとも許さず音を連続させた。さっきよりも少し大きい。大きい。

 二人以外、この屋敷には誰もいないのに。

「っ! ぎゃあああっ!」
 ようやく与次郎が叫んだ。伸ばしすぎたゴムが急激に元に戻っていくのと同じように緊張が解けたのを感じた。……もっとも俺自身も与次郎同様かなり仰天して、尻もちをついていた。
「ななななななな、何! 何ぃっ?」
「落ちつけよ……」
 俺は確かこっちからだったと、顔を向ける。不審な音は、どうやら書斎の和綴じの本がばらばら落ちたものだったようだ。よくこれだけ本が残っているものだ、と呆れつつ感心した。
 そこで俺は目を見張る。暗い色ばかりの和綴じ本や、その他の書物が乱雑と散る中に、それはいた。――白いから、よくわかる。
 白い毛皮。長毛種だから毛玉のようだ。尻尾が少し上がって、しばらくしたら下に下がった。

 そこに、猫がいた。

 俺の隣にいた幻影が走る。子供の頃の俺の幻影だ。猫の名前を呼んで撫でようとする。猫は、鳴いた。
 猫は――

「ワガ……ハイ?」

 猫はその頃からまったく変わらない姿で、少し気だるそうに尻尾を上げ、のんびり鳴いた。

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