彼は目を開いた。少しばかり仮眠を取っていた。だがそうしても、昨日の夜から続いている腹痛は一向に収まらず、むしろますます苛烈さが激しくなっていた。すぐに苦しみが彼の眉間を曇らせる。
 陣へ出る。ひどく深い霧が立ち込めていて、視界を奪っていた。よく目を凝らすと、その中に彼女の姿がある。もう自分の陣にいてもいい頃合いだが、心配して来てくれたのだろう。眠る前散々彼女に腹が痛いと喚いたからだ。他の兵には士気が下がるため言っていない。……いよいよあの狸との戦いだというのに、腹痛ごときに苦しめられるとは、と陰で笑われたくなかった。彼女なら、笑わない。
 彼女の姿をしっかり捉えた瞬間、ふっ、と彼の脳裏を掠めた幾つもの風景がある。一瞬で訪れ消えたものなのに、どうしてか息を吸うのも忘れるほど恋しくなった。


 目を見開いても、それが再びやってくることはない。


「……夢?」
「殿? どうされました? まだ具合が悪いのですか?」
 ひどく懐かしい気持ちと、愛しい気持ちと、切ない何かが彼に湧きあがって一瞬にして消えた。それらの想いの残り香で、彼は口を開いた。
「志摩子か……。
 ……夢を、見た」
 見当違いな言葉を返されて彼女は首を傾げ、またがみがみ何かを言うだろうと思っていたが、違った。呆然として彼女は彼を見つめている。
「奇遇ですね。私も、夢を見ました」
 彼女も夢を見るのか、と彼は意外な偶然に驚きながらも目を細める。
「どんな夢じゃった?」
「殿からどうぞ」
「わしは……


 今ではない時、ここではないどこか。
 わしは少年になって、志摩子と、あと誰か二人と一緒に、とても広くて楽しくて面白いところを歩いていた。
 いろんなものを食べて、いろんなものを見た。
 その中で、わしはいっぱい笑って、志摩子もいっぱい、笑っていた。
 とても、とても長い、一日の夢だった」


 どんな内容かはっきり覚えていないが、ただただ彼は微笑する。彼女は何も返さない。不安になって見上げてみる。
「志摩子……?」
「不思議なことも、あるものですね。
 私も、それとそっくりな夢を見ました」
 彼女は少し微笑んだ。


「今ではない時代、ここではないどこか遠い場所。
 殿は小さくなって、私と、誰か案内二人と一緒に、とても広くて騒がしくて、だけど愉快な場所を歩いていたんです。
 いろんなものを食べましたし、いろんなことをしました。
 殿は沢山笑われていて、私も――恐れながら、楽しそうにしていました
 とても、とても長い、一日の夢でした」


 ほう、と彼は純粋に驚いた。腹痛の苦しみさえ、その時は忘れてしまう。
「……戦の前に、二人揃ってそんな夢を見るとはな」
「まったくです。気合の入っていない、いい証拠ですね」
 二人は微笑み合った。
 しばらく二人は並んで立ち尽くす。沈黙と再び湧き起こる腹痛に音を上げて、彼の方から口を開いた。
「のう志摩子。この戦が終わったら……」
「何でしょう?」
「今度は二人だけじゃなくて、みんなで、楽しい所へ行こうぞ」
 の、と彼は自分より背の高い彼女を見上げ、笑って見せた。その言は彼のただただ純粋な願いで、これといって他意はない。
 彼女は殿、と呟いたがそれきりだった。つまらないことを言ってしまったなと言おうとした瞬間、彼は額を突かれた。
「みいっ!」
「お忘れですか、殿」
 苦々しい顔を浮かべた彼女は言う。
「はっきり申しますよ。この戦に負ければ、殿の命は無いも同然、なんですよ。
 そんな生ぬるい願望を仰っては、士気が下がります」
 そしてそっぽを向いた彼女に彼は叫ぶ。半ば本気で怒ったように。
「勝てる! 勝てるのじゃ!」
 自分達の勢力は相手側より優勢で、陣の構え方も理想的だが、統制がとれているとは言えない――敵にとってはそこが狙い目になるだろう、と彼女も彼の友人も再三彼に苦言を呈していた。何度も聞かされたそれは彼の中ですっかり図星になっていて、彼を自棄にさせる半面、かえって彼を冷静にもさせた。そうして出来上がった彼の頭脳に勝算は無くもなかった。だから彼は反発する。
「南宮山も松尾山も動けば家康の軍はたちまち――」
 彼はそこで、はたと気付いた。戦略のことではない。目の前の彼女のことだ。


 まだ彼女に言っていない言葉があったのだ。ただ、どこで言っていなかったか、判然としない。あるいは夢の中であったかと思う。


「……志摩子」
「何でしょう」
「もし、もしじゃよ。万が一、負けるようなことになったら――志摩子」
 彼女の聡明で澄んだ瞳を見つめた。彼女は言葉を待ち、静寂に身を置いている。
 彼の心が揺れる。


 彼女を今すぐ、逃がしたいと思う。彼女の義父である左近を死なせたのは自分の責任で、それだけでも辛いのにこうして彼女を死の危険に置くことは、彼女にも死んだ左近に対しても、酷だ。
 だが、それは――彼女に対する優しさでは無い。ただ彼が、後悔をしたくないだけ、自分勝手な我儘に過ぎない。
 その理由になる彼女の真の想いを、彼は知った。
 どこでだろう。ひょっとしたら、二人が共有した夢の中でだろうか。
 彼は、彼女に告げる。
 それが彼女に対する真の優しさになれと願いながら。


「その時お前は、わし達と共に、死んでくれるか?」


 静かだった彼女の目が、見開く。
 何度か瞬きをして、一度目を閉じて――彼女は苦笑した。


「何を今更なことを。当たり前じゃありませんか」


 彼女には珍しく大きく明るい調子だった。そして微笑する。彼には曇天の中で日が射すように笑いが込み上げてきたが、腹痛がまだしぶとくて、あまり笑えない。どうしても弱弱しい微笑みになってしまうが、それでも嬉しかった。


 ようやく自分が、本当に彼女に応えられたような気がしたから。


「霧が、濃くなってきましたね」
「み? ああ……でも、その内晴れるじゃろ」
 霧とは違い、彼女の微笑が、少し薄れていく。
「……長い長い、一日になりそうですね」
「……ああ」
 戦は一日で決するものではないが、初戦の日は長く感じられるものだ。


「最後の日になるかもしれませんね、お互い」


 真剣な顔に戻った彼女はそう彼に言うが、みい、と彼は渋顔を作る。
「志摩子の方が、よほど士気の下がることを言うておるぞ」
 これは失礼しました、と少し笑ってくれた。こういうところが左近に似ているなと彼はふと思う。
「私はもう、自分の陣に下がります」
「お、おお。気をつけてな」
 そして彼女は余計な言葉を漏らすこと無く霧の中へ消え行こうとした。


「殿」


 彼女は馬の元へ戻る途中立ち止まり、背を向けたままそう声をかける。
 何じゃ、と返ってくる呑気そうな声にやはり呆れながらも、彼女はこう言わなければと思う。
「……ご武運を」
 ――戦下手の彼の、今までにない規模の戦いだ。他愛もない言葉だが、かけるに越したことはない。
 実際、彼女が自分の為に言った節もある。前哨戦は勝てたが、今回は何がどう動くか予想が出来ない。自信が皆無なわけではないが、相当不安で焦っているのだろう。唇が少し震えていた。
 彼からの返事はない。
「……殿」
 彼に聞こえないくらい小さな声で、彼女はひとりごちる。
 普段ならここで腹を立て小言の一つや二つも申すが、まあいいかと思う。




 何かを聞けば、辛くなる。
 何も言ってくれない方が、まだ楽だ。
 だがそんな状態で戦うのは、少し、気が重い。




 彼に何か意見を言えた口ではない――自分もよほど甘く出来ているなと苦笑した、その時だ。


「志摩子!」
 彼女の名を不意に呼ばれ、振り返る。
 まっすぐで凛と澄んだ瞳が――純粋過ぎるが故、彼に何もかも疑わせず、腹黒いことをさせず、こんな状態にまで追い込ませたその瞳が、彼女を射抜いている。一際高い動悸がして、彼女も応戦するように見つめ返した。
「何でしょう」
 視線の勢いとは違って、知らず、その声は微弱に震えていた。
 彼は人懐こい笑顔を浮かべ、こう叫んだ。




「またな!」




 彼女は、目を丸くし、息をのんだ。


 ――今度この陣へ帰ってくる時、自分は死に至る程重傷かもしれない。
 目をやられ、彼の友人と同じように何も見えなくなっているかもしれない。
 いや、そうでなくともそのまま戦場で屍となってしまうかもしれない。
 もう、生きて逢うことはないかもしれない。
 馬鹿なことを――そう思い、彼女は震えた。


「…………」
 目を瞬かせ、何を言うべきか迷った。私に死んでくれるかと仰ったのに、この期に及んで再会を望もうとしているなんて殿は本当に馬鹿ですねと、そういうのが妥当かと思ったが、彼女の胸に湧き上がる想いがその言葉を阻む。


 ただ、彼の言葉にこたえたい。
 嘘でもいい。幻でもいい。夢でもいい。


 おミツ様、と彼の愛称を呟く彼女は、どうしてか微笑んでいた。
 その微笑みがどんどん、深くなる。
 霧は、次第に晴れていく。


「ええ、またいつか。
 またいつかどこかで、お逢いいたしましょう!」


 そして彼女は、破顔してみせた。
 初めて、だがどこか、遠い夢の世界で見せたように。











 慶長五年九月十五日、午前七時前、関ヶ原。
 彼と彼女の一番長い最後の日は、まだ幕を開けたばかりであった。









(了)







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