何度か咳払いをして、志摩子さんは落ち着いた表情を取り戻す。いつでも自然に微笑むような柔らかなそれにより、今度こそ私達と最後の瞬間だ、ということを知る。


「本当に、こんなに長くて楽しい一日は、初めてでした」
「……わしもじゃ。何のしがらみもなくただただ楽しかったのは、今日が初めてだった」
「義父上の、殿からさんざん強いられてきた苦労が、よく理解出来た日でもありましたよ」
「みう……そういう皮肉屋なところ、ほんに左近とそっくりじゃな」
 二人は何か、言葉を交わし合って互いに微笑み合った。


 一方私は、躊躇していた。
 何を言うべきなんだろう。私が夢見た、物語の輝く命である二人に告げる最後の言葉。
 さようなら、ありがとう、またいつか? ……奇跡の二人に対して、あまりにも別れの語彙が少なすぎる。
 そのことがひどくもどかしい。
「それじゃあ、さようなら」
 だけど鳴滝君の言葉は、とてもシンプルなものだった。私は胸を打たれたように感じた。
 そう、どんなに文飾豊かなものであっても、または素朴なものであっても、届かなければ意味がない。
「二人とも――さようなら」
 鳴滝君にそれを教えてもらった気がする。言い終えた瞬間、色々とごちゃごちゃした言い訳が出てきそうだったから、息を詰めるようにして私は口を閉ざした。そして、微笑んで見せた。志摩子さんが浮かべるそれと同じように。
 上手く、笑えたかな。


「はい。――さようなら」
「またな」


 本来の姿に戻ったミツ君はそう言うけれど、またの機会は、あるのだろうか?
 私達はもう一度、彼と彼女に出逢えるのかな?
 そんなことを考える私とは裏腹に突然、ミツ君はにやりと笑って鳴滝君を見た。


「のうナルヒコ。――早く、想いを伝えるんじゃぞ?」


 うあ? と、鳴滝君は首を傾げその後すぐに、馬鹿! と叫んだ。顔が真っ赤だった。


「そうでしたそうでした。美佐殿も早く」


 今度は志摩子さんから私に? 志摩子さんが隠した目的語と述語は――考えずともすぐ頭に浮かぶ。
 隣の鳴滝君のことだ。


 私と彼女の共通の話題で一番印象深かったのは――それしかないのだから!


 志摩子さんっ! とおろおろして叫ぶと彼女も悪戯っぽい微笑をすっと浮かべた。意外と、ユーモアのある人なのかもしれない。
 二人の最後の言葉は、図らずもその二言になってしまった。
 指先から砂が零れていくようにさらさらと、彼と彼女の体が粉になって薄れていく。きらきらと、夕日と呼応するように光る。それは光の蝶が羽ばたくごとに落としていく鱗粉と言ってもいいくらい、儚くて幻想的な光景だった。
 二人はそうして、消えていく。
 ところが光は消えずにどこか一方を目指していく。屋上からゆっくりと、地上へ向かう。
 私達は顔を見合わせた。そして、まるで何もかも通じ合っているかのように頷いた。
 光の行き先を、私達は追いかけた。

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