彼女は歩きだした。念のため辺りを見回すが、鳴滝と美佐の姿は無く、安堵する。自分のことは誰かが知っているかもしれないが、もうこの祭も終わるのだろう、片付けや後始末の作業で皆、手一杯になっているようだから、彼女の姿には目もくれない。もはや、走る必要もないだろう。背中に彼を背負ってもいるのだし――だから彼女はゆっくり階段を上ることにした。
 背中にいる彼は少し眠っているのだろうか。先ほどの小競り合いを気にしているのだろうか。全く何も言わない。ただ暖かい息と彼が生きている証になる鼓動が背中越しに伝わっていた。
 どうしてか、彼女は噛みしめるように一段一段、ゆっくり階段を上った。その傍を、祭から帰るのであろう子供達が、きゃははと騒ぎ、笑いながら、競争するように下って行った。彼女はふと立ち止まる。その子供達が階下へ行き見えなくなるまで、その場に佇んでいた。
 初めて、今背中に負っている彼と出逢ったのは、あれくらいの年齢の頃だっただろうか、と彼女は独り、思い出す。いや、あの子供達よりもう少し年上だったかもしれない。その頃から自分は女にしては体が大きく、彼よりも少し小さかっただけだった。彼は今に比べやや子供っぽい顔つきが抜けていなかったが、めざましく出世を果たし、義父を召抱える為にやってきたのだった。義父一人の為だけに自分の半分の俸禄を差し出す彼を、彼女は馬鹿だと思ったが、彼女は義父が好きだったから、義父の主君である彼を、そう無碍にすることは出来なかった。


 月日が流れ、彼より大きくなり、彼の屋敷で、彼の傍で働くようになった。
 彼のことは今でも馬鹿だと思っている。


(……私が殿に抱いている想いは、何なのだろう)


 再び階段を上り始めて、彼女はふと思った。普段こんなことは考えない。「この世界」に飛び出してきている今だからこそ、思えるのだろう。
 彼にとっても自分にとっても大切な義父を、易々と暗殺されたことに対しては怒っているのだろうか。ちっともその横柄な性格を直そうとしないことに対しては苛立ちだろうか。利よりも道徳を信じ、今でも純粋に勝利を信じていることには、呆れているのだろうか。
 彼女は、不思議に思った。こうして考えてみると、彼のことを嫌いになる理由はあれども、好きになる理由はちっともない。なら何故、自分はこの憎たらしい主人を背負っているのだろう。かつて義父は、彼のそのまっすぐな気性に惚れたのが運の尽きだよ、と言って笑っていたが、自分もそうなのだろうか。
 彼女には解らなかった。こういう観念的なことは、背中にいる彼の方がよほど理解の程が違うのである。困ったものだ、と彼女が溜息をつこうと思ったその時、彼は寝言のようにこう言った。


「志摩子……すまんな」


 悪戯を咎められた子供が、ようやく口にした謝罪のようにも聞こえた。彼女は再び、立ち止った。
 彼は何も言わない。本当に寝言だったのかもしれない。
「――その言葉を、どうして他の人にも、言えないのでしょうね」
 溜息をひっこめた彼女は、そう苦々しく呟いた。だけど顔は、やや微笑している。彼女の体に湧き上がり、流れるのは、得体の知れない愛しさであった。義父にも同じものが流れていたのかもしれない。そう思いながら、彼女はまたゆっくりと上を目指し始めた。

  

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