彼女は小さな彼の手を引いて、とにかく走り回った。彼はもう、あらゆる食物や展示や催し物に興味を惹かれなくなっていた。最初から二人はこんな別次元の世界で、楽しく過ごしている場合では無かったから、感傷を抱く必要などない。ただ、彼と彼女を案内してくれた鳴滝と美佐には申し訳なかった。その想いを振り払うために彼女は途方もなく広いこの敷地の中を、当てもなく走り回っているのかもしれなかった。
 やがて、今日一度も訪れなかった方面に辿り着いた。走った量は、鍛えている彼女にはさして苦痛ではない。ただ彼女の主君である彼には少し、厳しかったかもしれない。忘れがちになるがこの文官の殿は体も弱いのだ。だから、そこで二人は立ち止った。
 目の前を、ひっきりなしに人が通る。往来の激しかった大坂や堺の市場を彷彿とさせた。
「志摩子」
「何でしょう」
 息を整えて彼は言う。繋がれた二人の手はしっとり汗ばんでいた。
「ここは、広いな。まるで城のようじゃ」
「……ええ」
 自分達のいた城も、この建物ほど大きくなかったかも知れない。複雑でもなかったかも知れない。その城に何度も出入りし設計にも携わっていた彼女の義父だったらいいやそんなことはないぞと人の良い笑顔を浮かべながら反論するかもしれないが、ただ彼女は彼の意見に同調した。
「志摩子、高いところに行きたい。
 天守は、ここにはあるのかな」
「承知しました」
 少し先に階段が見える。とにかく上に登っていけば、見晴らしのいい所にたどり着けるであろう。
「……しかし何とかと煙は、高い所が好きとはいいますね」
 彼女にとってはほんの戯れで出た言葉であった。
「む、わしのことを馬鹿と言いたいのか? 志摩子。
 そんなことを言ったら、城持ちの諸侯はみんな馬鹿、ということになるぞ」
 ふん、とそっぽを向いた彼の顔は、実に彼らしく、偉そうだった。
「……天下を狙うようなものは、みんな馬鹿ですよ」
「わしは天下など狙ってはおらぬ!」
 繋いだ手を思わず離すほど、彼は激高した。道行く人々はしかし、その作業に忙しいのか、小さな彼が何を言おうと素通りしていく。ただ彼が向き合うのは彼女だった。二人の世界は最初から二人だけだった。
「……上様の世を、守りたいだけじゃ」
 その決意が固いことを彼女は知っている。だが、彼は萎んだ花を悼むかのように呟く。彼女の唇も柳眉も、しばらくぴくりとも動かなかった。やがて根負けしたように、彼女は彼と向き合うため屈んだ。
「わかっていますよ」
 本当は何も言わずとも、彼女は全部、わかっていた。彼が今欲しいのは言葉だということも、何となく理解していた。それでも、彼は沈黙を続ける。
「……だけど、天下を狙ってはいなくても、やはりあなたは馬鹿だと思いますよ」
 だからだろうか、普段はいらない言葉など極力紡がないようにしているのに、彼女は語った。
「義父上を亡くした時点で、もう止めておけばよかったのに――
 あの大物と喧嘩出来るなんて、本当、天才か馬鹿でないと無理ですよ」
 彼は、みいともむうとも言わない。沈黙の濃さと共に俯きの加減さえも強めていく。仕方無く、彼女は背を差し出した。
「さ、お疲れでしょう。私の背中に」
 ようやくみ、とだけ――小動物が鳴くように零して、主君である小さな彼は彼女の広い背に負われた。

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