鳴滝殿、とそれを止めようとする志摩子さんの声がふっと耳を掠めたが、気にとめない。ミツ少年のこともあるが、もし色々訊かれることになっては互いに混乱しそうだからだ。「こちらの世界」だの「向こうの世界」だの――俺はそれがまず気にかかった。彼女は、本気で言っている。芝居じゃない。
笹興はペン回しのペンで頭を掻きながら変な笑いを浮かべながら別にいいぜと言ってくれた。その笑みの真意が段々と俺に伝わってきて、俺は顔を赤くした。
「ち、違うぞ、俺は志摩子さんのことをそう想ってるわけじゃなくて――」
「まーたそんなこと言っちゃって。いいよなあ、身長の高い人ってのも」
「だーかーらーっ」
わかったわかったと変な笑いを持続させて言うものだからますます俺は頭に血が上ったけれど、これで何とか危機は逃れたことになる。あとで始末書、かわりに書いてもらうぜ、と刑事ドラマのように言いしばらくして笹興達総務、執行部、救護班が去ると、あの混雑は嘘のようになくなっていた。黒雲がすっかり去った雨上がりの空を地上に見ているかのようで不思議だ。
「……鳴滝殿、助かりました。正直、私も混乱していて」
「いや、そんな俺は、何も。……すごく、強いんですね」
いいえ、と志摩子さんは頭を微かに振い髪を揺らし、また頬を染めた。謙遜しすぎだ。あの様子を見せ、こんなしとやかでどこか可憐な姿さえ見せつける。才色兼備、文武両道と言うが、まさにこの志摩子さんの為にある言葉ではないだろうか。
「あれだけ人が集まったのに、おミツ様を未だに発見できないのが、私には心苦しい」
そう言われると、こちらも胸が詰まる。
「鳴滝殿を徒に付き合わせて、こんなことになって――まったく、不甲斐ないです」
「俺は、全然構いませんよ」
確かに、音宮さんもミツ少年も、まだ見つけられていない。だけど志摩子さんと一緒にいるのは、そう悪くない。……いや、笹興が意味深ににやにやしていた、恋愛的な意味ではなく! あくまでも、俺が最後の文化祭を共に過ごしたいのは音宮さんの方だ。
ではなぜ、彼女と一緒にいてもいいのか。正直言って世界だの世界じゃないだの微妙にかみ合わない常識だのに腹は立っていたが、あんなに潔く、勇ましく戦う彼女の姿にある種の熱さを見たからだろう。何だか、どうでもよくなった。
彼女の為に、主君であるミツ少年と彼女を巡り合わせたいと思った。それは邪な心とは違う。ただ純粋な願いだった。
胸がさあっと開いた気分になり、気持ち良くなる。心地よい春の風に吹かれたようだった。そうして何気なく前方を向いた時――俺は、目を疑った。
音宮さんが、いる。
嘘だろ。嘘じゃない? 太ももをつねってみたが夢ではない。ぴりっと走る痛みがあった。現実だ。そんなに遠くない距離に、彼女の小柄な体、眼鏡、三つ編みや、制服のスカートが揺れるのまで見える。
まさか奇跡か? 奇跡が起こったのか? 探し求めた人が、すぐそこにいた。
そして彼女も、俺を見ていた。俺を見つめていた。
視線と視線が繋がった、その時だ。
「志摩子、しまこ――っ!」
彼女のすぐ隣から何かが駆け寄ってくる。少年のようだった。俺しか知らないはずの志摩子さんの名を呼んでいる。
まさか、もしかして――。
「――おミツ様!」
俺のすぐ隣にいた大きな「彼女」は、ようやく巡り逢えた「彼」の名を愛おしそうに叫んだ。