廊下の窓から戦地に紛れ込んできた風は、その場を見て驚き逃げるように吹き消えていった。志摩子さんの髪が、さらりと揺れる。
 立っている者は彼女だけ、地にひれ伏しているのは、屈強そうな男達。どの顔も、驚愕と後悔とが滲み出て、顔中に溜まって膿になりそうだった。――彼等をそこまで叩きのめしたのは、独りその場に立つ、女性の志摩子さんだった。
 戦場に咲いた、一輪の華。
「ふう。他愛もないですね」
 準備運動すら終えていない、とでも言うような口ぶりだった。
「これなら、戦下手で武芸はてんで駄目な殿と稽古試合でもしていた方が、よっぽど楽しかった。得物も、いりませんでしたしね。ひょっとすると素手で戦った方が面白かったかもしれません」
 と、彼女は手を握ったり開いたりして見せた。その彼女の独り言にも彼等は返事出来ないのだった。何か背を向けてぴくぴくと手先を動かしている者はいるが、彼女はもはや負けた相手が何をしようと興味はなさそうだった。
「鳴滝殿、怪我はございませんか」
 志摩子さん――と彼女の名をただ阿呆のように呼ぶことで畏敬の念を表そうとした矢先、周りからきゃああと歓声が上がって、割れんばかりの拍手が巻き起こった。これには志摩子さんも驚いたようで俺に近づく足を止めた。周りをきょろきょろ眺めて突然起こった事態、いやあるいは当然の結果に困惑している。
 すごい、かっこいい、強い、クール、美しい、綺麗、美人、惚れた、お姉様! 等の賛辞が四方八方から志摩子さんに投げかけられデジカメや携帯で写真を撮っている奴もいる。シャッター音や光も容赦なく飛んできた。志摩子さんは、さっきまではあんなに激しい格闘を繰り広げていたが、まるで借りてきた猫のようにただ固まっている。俺もどうすることも出来ないでいると、きゃあああとまた声が上がる。
  歓声、ではない。さっきの怯えた叫び声と同じものだ。
 志摩子さんの向こう側の人垣を乱暴に割り込んでくる一団がいた。障害物のように人が倒され崩れるが、首謀者達は転がる木石と同じように被害者を全く相手にしないのだった。
「てめえかあ? 俺達の可愛い後輩こんなにしちまったのはよお! あぁ?」
「兄弟同好会の野戦会っスけどォ、うわひっでー」
「ツラ貸せやデカ女!」
 勝利に沸いた周囲は再び戦慄に震えあがり一歩一歩志摩子さんから遠のいていく。それもそのはず、現れた男達はどれもひょろひょろしたチンピラや出来そこないの不良とは違い、体が軒並み大きく声も荒々しく大きい。志摩子さんが打ちのめした奴らよりも全てが上。刺青や高圧的な装飾品なども平凡な一般市民を怯えあがらせる要因か。それに人数が先ほどの倍多いときた。まるで虎が群れを成して進んできたかのようだった。
「ほう、援軍ですか」
 なのに当の志摩子さんは涼しい顔を一つも崩していない。――その外見にそぐわず、あまりに喧嘩慣れし過ぎているのだ。事実、さっきまでの戦いは素人のものではない、と俺は見ていた。誰か強い人の薫陶でも受けてきたのだろうか。そういえば義理のお父さんの跡を継いだと言っていたが、まさか武道の方面まできっちり継いでしまったなんてこと、あるのだろうか、女性なのに。
「何人来たところで同じことです。今度は素手で戦ってみましょうか」
 挑発が、鼻につかない。まるで時候の挨拶でも述べるくらいの気軽さだ。ぽんと彼女は即席で作った筒を投げた。ぱさりと乾いた音を立て落ちる。それが、ゴングとなる。
「はっ、んなこと言ってられんのもいまのう」
 ち、と言い終わる前に志摩子さんは駆けていた。相手の動揺が表情に出る前に拳で顎を突き上げ殴った。唖然とした隙を付いて左隣にいた男に回し蹴り、そのまま右隣にいた男の胸を貫くように蹴飛ばした。正直そんな先制が来るとは思ってなかったのだろう、男達はただ唖然として動けなくなり――そのまま彼女の拳と健脚と肘鉄と体当たりと、意外な技だが頭突きに、上手いことそれぞれの急所を突かれ、一目散にやられてしまう。
 再び、風が吹いた。
 勝利に酔ったのか――清廉な彼女に酔う、なんて言葉は似合わないけれど――唇の端をほんの少し上げて、言う。
 どこから見ても、非の打ちようのない女性だというのに――。


「さあ! ほかにこの左近とひと勝負つけたい者はおらぬか! 私はまだまだ動き足りぬぞ!」


 まるで、敵の首をいくつ上げても血気盛んで止むことを知らない、武将のように高らかに告げたのだった。
 わああああっと前回に輪を二重、三重にかけまくった歓声が廊下中を包んだ。楽器を持っていたどこかの展示かクラブの宣伝は祝福の音色を賑やかに奏で、彼女を褒めたたえる言葉が折り重なって何を言っているのかもう解らないくらいだ。カメラのシャッターは相変わらず押されるが、そのカメラがどこか本格的な所を見るともしや新聞部か清山私立記者団か清山私設新聞会などの報道系サークルの一派が来たのかもしれなかった。
「……しまった! 私としたことが、つい我を忘れて……」
 志摩子さんの頬はかあっと赤くなった。さっきの口上のことだろう。まさか恥じらう志摩子さんも見れるとは思っていなかった。ついどきどきしてしまう。志摩子さんは頬をそのまま赤くしながらも俺に手を差し伸べた。俺は竹刀袋を渡す。
「その……お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。怪我はございませんか」
「はい、大丈夫です、けど、恥ずかしいなんて――」
 次の句を次がずとも、志摩子さんを取り巻くまさしく現在の状況を考えてみれば、これは大パニックだ。志摩子さんはもうとにかくどうすればいいのか分からず、ただ四方に頭を下げたり微笑んだりしている。

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