あれ? と俺は首を傾げた。俺が考えに耽っている間に、こっそり帰ってしまったんだろうかと思った。今みたいに携帯がないから、電話するとかメールするとか、とにかくどこにいるのかも訊けない。もしかしたら家の急用でも思い出したのかもしれない。彼女はやはりとても家族想いの子で、よく家のことを手伝っていると言っていたから。俺がきっと気付かなかっただけなんだ。
 それくらい集中して、あのことに思い至ったというわけだ。だからしょうがない、とその日は一旦帰宅した。明日学校へ行ったら話そう、そうしようと。母さんが何かいいことでもあったの、と訊くくらい俺はその日穏やかな笑顔を浮かべて家に上がったらしい。何でも、と微笑しながら返事したのを覚えている。


 でも――そんな笑顔を浮かべていられなくなった。







 次の日、登校してみると清瀬はまだいなかった。珍しいなと思った。彼女は俺より早く席について本を読むなり予習をするなりしていた子だった。まあきっとその内来るさ、と思って机に突っ伏して寝ていたらいつの間にか朝礼の時間になった。俺の隣に人の気配を感じた。起立しながらおはようと言おうと思って――絶句した。
 隣にいたのは清瀬じゃなかったからだ。全く知らない女子になっていた。顔は全然違う。大人しい感じは似ていたけれど、彼女より明るい感じも見える。油断すればいじめの対象になるかも知れないけど、でも友達がちゃんといる感じだったからその心配はなさそうだった。勿論眼鏡もかけていなければ、髪型も垢抜けていて、今で言うとこのボブヘアーなっている。でも胸のネームプレートにはちゃんと清瀬とある。
 清瀬? と呼びかけた。おはよう、どうしたの? と返される。更に絶句した。声が完全に別人だった。俺は目を白黒させて、でも動揺を感じ取られないようにおはよう、何でもないと返すばかりだった。
 休み時間になってクラス名簿を見てみた。思った通りだ。清瀬という苗字の女子はいる。でも「由衣子」ではなく、あの彼女は「小絵」という名だった。由衣子とは子音も母音も被らない。小絵の方の清瀬は休み時間になるなり、友達のところへ行って何人かの女子と談笑を楽しんでいた。そこに本を読んで少しの時間を過ごす大人しい清瀬の姿は、逆立ちしても見えそうになかった。
 そうだ、いじめのことはどうなっているんだ? と思った。俺は友人を捕まえてそれとなく訊いてみた。でも、昼休みのボール事件なんて誰も知らないと言うのだ。確かに今までクラスで密かに横行するいじめはあった。だけどそんな派手な事件はなかったし、それにもうすぐ受験生だしテストの時期も近いから、もういじめなんか行われていないということだった。清瀬のことについても訊いてみた。怪訝そうな顔をされたけど、やはり皆が認識している清瀬は小絵の方で、俺の知っている清瀬はどこにもいないようだった。
 昼休みに職員室に行って俺は担任に尋ねてみた。やはり清瀬由衣子という生徒については知らないと言う。嘘をついている感じはしなかった。他の教師にも尋ねてみたけど結果は同じだった。俺は絶望しながら職員室を出て、やはり絶望しながら廊下の壁に背を預けた。帰りにパン屋に寄ってみて、そこでもそれとなく訊いてみたけど、そんな客はいないという。俺は清瀬の家に行ってみた。そして表札を見たけど、そこに由衣子はやはりいない。いるのは小絵の方だ。


 一体清瀬はどこにいってしまったんだ?


 ――その問題を俺はまだ、この歳になってもまだ解決できていない。解決できるような問題じゃないのかもしれない。どこの何がおかしくなって清瀬がいなくなっているのか、見当がつかない。ただ単に悪い夢を見ているんだとも思う。そう、ずっと見続けているんだと。
 俺は素知らぬ顔をして日々を過ごしているクラスメイトや教師、関係ないその他大勢の人々にまで何度も逆上しそうになった。けれど堪えた。だってみんな、本当に何も知っていないような気がしたんだ。
 学校中がグルになって俺を騙そうとしているようにも思えないし、もしそうだったとしたらあの清瀬小絵はどこから連れてきたんだということになる。そもそも俺を騙して何か得があるか? ないだろう。いじめグループのボスの報復かとも思ったけど、だとしてもこんな大掛かりなことはさすがに出来るわけがない。そもそもあの昼休みの事件はなかった、ということになっているのだから。
 そうこうしている内にテストの時期が来て、終業式があって、年が明けて――月日を重ねても、俺がこうして大人になっても、清瀬由衣子はどこからも現れなかった。
 そして俺は、大人になっていく俺は、大抵の他の人間がそうであるように、気にはなるけどどうしようもないことを、段々、考えないようになっていった。
 そういう風にして、人間は大人になっていく。


 だから俺は、段々清瀬のことを忘れていった。



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