多分十二月の初めくらいだった。寒さは毎日いやに増して、学校から家に帰るのが億劫になっていた。教室内はスチームがかかって暖かい。でも一度廊下に出るとうんと寒くなる。どんよりとした空が毎日続いて、いつ雪が降ってもおかしくなかった。
 でもその日は、小春日和というのか綺麗に空は晴れ渡っていた。気温も穏やかで、何も悪いことなんてないように思える、そんな日だった。夕焼けもまた、鮮やかだった。

 俺は図書室に本を返して、また新しく本を物色していた。適当に借りて帰ったけど何を借りたかは忘れたな。まあそれはどうでもいいことだ。清瀬は委員会か係の仕事があったから一人で帰っていた。俺もまた一人で帰った。けれどばったり会った。あのパン屋で。お互いに笑いあって、適当に買って、どこかで食べようということになった。
 即席ピクニックってところだ。だってその日はすごくいい天気だったもんだからきっと二人とも浮かれていたんだ。夕焼けの煌めきがどれもこれも宝石のように思えて、たった一瞬という時がどれほど高価なものか教えてくれるような気がしたことをよく覚えてる。
 河川敷のベンチに座った。川の近くで、日も暮れてきているっていうのに風はとても暖かで清瀬の香りをふわりと運んだ。授業中だって同じように座っているけど、彼女の暖かさが教室、学校という枠組みを超えて俺を包んでくれている。そんな気がした。そう思っていることはおくびにも出さないで世間話をいろいろした。読んでる本のこと、最近起こった出来事、期末テストのこと、進学のこと。

 そう、何てことのない話しかしていなかった。こんな日が明日も明後日も続く。また席替えがあってもクラスが別れても、違う高校に行っても、別々の人生を歩むことになっても、この日だけは世界のどこかに、俺達の記憶の中に、あるいは夢の中に、永遠に残っているんじゃないかって、そう思った。

「あのさ」

 俺はその時、誰にも話していなかったことをようやく話し始めた。
 別に大層なことじゃない。俺が腕を失う前に見た夢の話だ。そう、片腕になっていたけど、それなりに生活していたという夢のこと。親にも医者にも友人にも誰にも言っていない。清瀬だけに話をしたんだ。秘密にしていることを話すのは、何だか疑似的に告白をしているような気がした。実際、そういう意味もあった。清瀬が気付いてくれたかどうか、知らないけれど。
 何の横やりも挟まずに、清瀬は静かに耳を傾けていた。話し終わった後にやってきた沈黙を埋めたのは自然の音。川のせせらぎが聞こえて、風が草を揺らしていく。清瀬のあのね、と話し始める声もそうした中の一部のように思えた。あんなに鬱陶しく思っていたのに、いつの間にか俺の耳に心地良いものになっていたその声。

「私も、不思議な夢を見たことがあるの」

 俺を見る顔は真剣そのものだったけど、話すのを迷っているように思えた。眉が悩ましげに反れていた。でも、彼女はゆっくり話し始めた。

「ある女の子と、石像の夢を見たの。

 その女の子は私じゃない。栗色の髪がふんわりとしていて、目も大きくて肌は白くて、フリルのついた薄ピンク色のドレスを着ていた。まるで外国の高価な人形のようだった。
 その人形のような子は中央に置かれている石像の方へ歩いていく。その石像は、あの、ミロのヴィーナスのように、腕がなかったの。石像というよりは、胸像に近いような……女の子は、ない腕を触るように石像に触れていく。

 すると、とても透明にだけど、やがて一本の腕が出来上がっていった。段々それは目に見えて、やがてしっかりとした腕になる。もう片方の腕も一本出来上がる。それで終わりじゃないの。出来上がったその腕から枝分かれするように、もう一つ腕が出来たの。それも女の子が触ることで出来上がっていった。
 彼女は空気を材料にするように、腕を作り出す。心地よい自然の音を、ひとつひとつ大事に奏でるように。
 そうして何本も何本も腕を作っていった。まるで節足動物のように、まるで千手観音の仏像のように、あるいは何百年も生き続けている大木の枝のように。
 それは傍から見ればとてもグロテスクなものだった。けれど、その空間が混じりけのない白い光に満ち満ちた空間だったからか、私にはとても神聖なもののように見えたの」

 気持ち悪い話でごめんなさい、と彼女はまた元のように川の方を見つめた。俺も何だかよくわからないけど、どこか呆けた気分で川を見た。流れに夕日の光が当たって、姿のないものが見えた気がした。そして不思議と眩しかったのを覚えている。

「その夢を見た何日かあとに、クラスの子が事故に遭ったと先生が朝礼で伝えた。
 そしてまた、その何日か後に席替えがあって、私達は隣同士になった。……私は夢との関連を考えずにはいられなかった」
「じゃあ、清瀬はその夢を見たから俺を助けてくれるようになったのか?」

 言っておいて意地悪な質問だと後悔した。そんなはずはない。俺がそう心中で続けたのと同じタイミングで彼女は頭を振った。彼女はどう言うべきか、少し口を開けて何かを考えていたようだったけど、なら良かった、と俺が満足そうに言ったからか、微笑んで口を閉じた。
 清瀬を困らせたくないし、こうなっている「今」があるのだから細かいことは気にしなくていいだろうと思ったんだ。それに清瀬も、この夢の話をするのは初めてだっただろうと思ったから、何となく疑似告白が成功したように思えた。それで、もともと浮ついてたけど、更にどことなく浮ついた気分でもいたんだ。
 俺は清瀬の見た夢について考えてみた。何本もの腕が生えた石像というものを頭に思い描いてみる。それを何もない空間から作り出す少女も想像してみる。考えていくうちに石像は俺に変わっていき、少女は清瀬になっていった。

 俺の失くした左腕が出来、またその左腕から新しい腕が生えてくる。確かに見た目には気持ち悪い。でも概念的にはどうだろう。

 俺はあらゆる人物のことを思った。両親、弟、医者、看護師、俺を轢いた運転手、警察、友人、クラスメイト、学校の先生、パン屋の店員、街中で会うその他大勢の人々。そして清瀬。
 俺は、その人達の気持ちを考えたことがなかった。考えるにしてもそんなのは当てずっぽうな推量、いや思い込みでしかなく、真実だとはとても言えないものだ。
 確かに申し訳ないとか怖々と思ってたとか、少しは当てはまるところがあるだろう。でももしかしたら心のどこかで――いや、というより本心から、真心で、俺を助けたいと思っていたんじゃないか。清瀬と同じように。
 そんな人々が俺の失くした腕となってくれたんではないか。俺は本当は、何本も腕を持っていたんだ。夢の少女が創り上げた石像の腕のように、そこには沢山の、俺を助けてくれる腕が存在していたのだ。
 俺を救いあげてくれる大樹の枝のような、あるいは俺を支えてくれる太い根っこのようなそれに、俺は気付かなかった。自分独りの世界に閉じこもっていたから。友人達だって家族だってクラスメイトだって、よそよそしかったけど本当はもっとずっと、優しかったかもしれないんだ。
 そういうことを思った。だから俺は、隣の清瀬に伝えようと思った。そして、私もそう思うって笑って欲しかった。そしてあのさ、と言いながら顔を向けてみた。


 彼女はいなくなっていた。


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