「……ありがとう」
 そんなわけあるか! と心中大きく否定の声――でも否定しきれない声を上げたのと、清瀬のその言葉が重なるのは同時だった。え? と何事もなかったように訊き返す。
 ありがとう。清瀬は少し不細工になった眼鏡越しの目を細め、唇の端をほんの少しあげてそう言ったんだ。

 ありがとう。たった五文字の言葉だけど偉大な言葉だ。愛してると並ぶくらい、世界で最も大切な言葉だと思う。
 大人になった今だからあの頃を俯瞰して思うことが出来るけど、「ごめんね」や「ごめんなさい」よりもずっと、ずっと相手を縛らない言葉だと、俺はそう考えている。俺はその頃いろんな人から「ごめんね」や「ごめんなさい」を聞いていた。お前のおばあちゃん達――つまり俺の母さんや父さんも何かにつけそう言ったし、お前の父さん、つまり弟も、友人達もクラスメイトも、俺が何かする度そう言った。片腕だからだろうか。
 そう言われる度、俺を拒む円の半径がどんどん大きくなっていくような気がした。でもその時清瀬の「ありがとう」を聞いて多分、その円は少し小さくなったと思うんだ。同時に少しほっとした。安らかな気分にもなれた。こんな気持ちを感じさせてくれた清瀬に、こっちが感謝したいくらいだったんだ。

 俺は積み重なった「ごめん」に、少々疲れすぎていたんだろう。

 いいか、よく覚えておけ。「ごめんね」よりも「ありがとう」だ。「ごめん」は己の罪の鎖を、人にも縛りつけることになる。






 で、何気ない顔をして教室に戻ってきて授業を受けた。ひそひそ何か言っているようだったけど、清瀬のありがとうが心地よかった所為でそんなに気にならなかった。その日から以前より刺々しくなくなったと思う。ボコボコにしたいじめグループの女子には謝っておいた。実は報復に怯えていたが、その日からすっぱりいじめはなくなった。その理由については、まあ意外なところから痛いしっぺ返しをくらったということもあるだろうけど、俺はこう考えている。さっき俺は時限爆弾のように、とか言ったよな。俺に関わって難しいことになるのを避けたんだろう。それに気付いた時、以前だったら何くそ、と思っただろうけど、清瀬のことがある。その程度で清瀬がいじめを回避出来るなら安いものだと何となく飄々と思った。

 それから、俺達はどことなく仲良くなった。休み時間は清瀬を守るためもあるけど席にずっと座っていて、読んでいる本のことを尋ねたりした。俺はそれまであんまり、というかほぼ全く本は読まなかったけど、その辺りからぽつぽつと読むようになった。文庫本はぺらぺらしてて少し読みにくいけどハードカバーだと大きくてページも安定して読みやすいから、図書室とか市立の図書館には結構通ったっけ。だから今こういう仕事についているのは清瀬のお陰かも知れない。もしこの世界に清瀬がいるなら俺の本を読んで欲しいと思う。
 一方、俺が教えたのは主として聴いている音楽について。テープを作って渡したりもした。でもあいつにロックはうるさかったかも知れない。でも渡した時はすごく嬉しそうにしていた。感想だって聞かせてくれたしな。どの曲が好きだとか、このメロディがいいとか。
 パン屋に寄る日があったら一緒に行ったし、互いのパンを交換して食べた。チョココルネにあんパンにメロンパンにクリームパンにカレーパンにドーナツ。あのパン屋はクロワッサン以外も美味かった。潰れていないことを祈ろう。
 そうして一緒に途中まで帰ったりした。ある時は家まで送ったこともある。その頃は晩秋って頃合だったから、日が暮れるのが早いんだ。すぐ真っ暗になるから危なかったんだよ、清瀬を一人で帰らせるのが。

 まあ何やかや、お前が言わなくてもわかるだろうが――俺は清瀬のことが好きになった。多分、人を好きになったと、恋をしていると初めて理解した恋だった。つまり、初恋だった。

 それを感じ取れるくらい俺は丸くなっていた。家族に対しても、友人に対しても教師に対しても、何となく優しく接するようになってきた。これもまた清瀬のお蔭だ。無い腕が本当に生えてきて、彼女に触れられるんじゃないかって思った。
 義手をつけることも悪くないかもしれないなあとも思い始めてきた。でも、義手をつけることは何となく彼女に対する裏切りのような気がした。清瀬は俺の左腕の代わりにいろんなことをしてくれていたから。だから俺は今でも、必要に迫られた時以外は義手をつけることを良しとしてないというわけだ。
 ん? なんだ? ああ、さっき言った「もしこの世界に清瀬がいるなら」ってどういうことかってか? 今それを話すところだよ。


 例えばの話――お前は、人間が突然この世界から消えてしまったらどうする? どう思う?



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