話はいきなり変化するけど、俺はまた夢を見た。なんと、朗報だ。俺の腕が治るらしい。すごく良く動く、まるで本当の腕のような義手が開発されたとかそういうのじゃない。「生えて」くるんだ。切断された部分からまた新しく、にゅっと。あるパンを食べることで治る、そんな夢だった。夢はご丁寧にそのパンを売っている店のことも教えてくれた。俺は飛び起きてメモした。夢の中だけの店じゃない。実際にある店なんだ。学校からそう遠くないところだ。俺はその日の学校が終わるなり、夢でのお告げを信じてパン屋を目指した。パンを食べても腕なんか生えるわけがない? お前は馬鹿か。当たり前だ。俺の腕は今でも無いだろうが。まあ話を聞け。
 そのパンは、クロワッサンだった。普通のものよりも一回り小さい、ミニサイズのそれを安く売ってたんだ。コンビニのレジの前に置いてある駄菓子みたいな扱いに近いかな。俺はその日の所持金全部でクロワッサンを買って頬張った。青春だな。買い食いだ。そのクロワッサンは美味しかった。今でも売ってるかどうか、そもそもそのパン屋は潰れてるかも知れんが、ホントに美味かったんだぜ。今度教えてやるよ。

 そんな日を三日くらい続けた。最初のうちは美味い美味いと思ってたんだが――段々絶望してきた。俺は一体何をやってるんだろうと。だってそうだろう。いくら夢のお告げとはいえ、パンなんか食べて腕が生えるかっての。そんな風に人間が出来てるんなら義手や義足はいらねえし戦争だって勝ちまくりだ。くだらねえ。ああ本当にくだらねえ。話をしているのも、そんなことをやったのも俺だけど、自分の阿保さに腹が立ってくるぜ、まったく。まあ中学生ってのは遍く馬鹿だっていう良い証拠だな。――お前のことを言ってるんじゃねえよ。
 そのことで――まあそのことだけじゃないが、主としてそのことで――性格の苛烈さがますます研ぎ澄まされていった。家族とは衝突するし、友達ともくだらないことで喧嘩するようになった。素行が悪いってことで生活指導の教師連中にも目を付けられるようになった。けど、事故で片腕を失ったってこともあるだろ。同情の方が勝って、がつんと注意しようにも出来ない。
 クラスの連中にも教師連中にも、何だか一線引かれてる。そんな疎外感を俺は、味わわずにはいられなかった。


 だけど、そんな俺に唯一距離を置かない奴がいた。それが、さっき話した隣の席の女子だ。名前は清瀬由衣子。誰とも喋れないような子だと思ってたけど、俺が登校して席に座るとおはようと、小さな声でだけど言ってくれるし、風で教科書が飛ばされないようにそっと押さえてくれたりもした。
 そうそう、言ってなかったけど俺達は窓際の席で、彼女が窓側、左側だった。俺はその隣。左腕がないから教科書やプリントを押さえたりするのが少し厄介だったんだ。筆箱や消しゴムで押さえるのには限界があったり、無理がきかなかったりするからな。他にも消しゴムやペンが左側に転がったりしたら、探してくれるのは清瀬だった。他にもいろいろ助けてもらったと思う。
 だけど俺のその頃の性格といったら本当にどうしようもなくて、彼女のその小さな親切が全てお節介に映った。そんなことをしていい子ちゃんであることを演じているだけの偽善者だ、って。それに片腕であることのコンプレックスが段々大きくなってきて、余計清瀬の存在が苛立たしく思えた。あいつはちゃんと、両腕があるからな。そのくせ義手はつけたくなくて、腕一本でも生きてやらあっていきがった。周りのものを全部敵だと思い込んで生きる。中学生ってそういうところもあると思うな。お前もそうだろ? 図星じゃないか?
 腕一本でも、やろうと思えば出来る。そのうちそう思うようになって俺は例えば日直、クラスの係の仕事を積極的にやりだした。周りに、目に物を言わせよう、そういう感じだ。どっちにしろ尖ってる考え方だけどな。
 国語係だったから、国語のノートや課題の提出で集まったそれらを先生の所に持っていかなきゃいけないんだが、課題のプリントならまだしも、ノートなんか明らかに片手で持てるような量じゃないのに、持つとか言い張った。自分の腹にノートを預けるような格好で、まるで曲芸のような歩き方で職員室まで行ったのさ。結構上手くいってたんだけど、いつだったかな。盛大に廊下にぶちまけた時があった。周りに人は少なくて、俺は掻き集めた。くそ、とか、ちくしょう、とか言いながら。
 でも俺のほかに誰か拾っている人がいると思って、目を上げてみると、それはやっぱり、清瀬だった。
 俺の仕事だから横取りするんじゃねえよ。そんなことを言って彼女が拾った分を載せるように指示した。清瀬はおずおずと載せてごめんなさい、と申し訳なさそうに言った。謝ったり、礼を言うのは俺の方だったのに、俺はそういうことがわかっていなかった。むしろいい気味だとか思ったくらいだ。それくらい彼女の小さな――いや、ちゃんとした、立派な親切は多くて、俺はそのどれもを大きなお世話だとかお節介だとか思っていたのはさっき言った通りだ。





 ところで、さっきのクロワッサンの話をいきなり引っ張ってきてもいいか? 俺の腕は生えないと証明されたわけだが――まあ当たり前の理屈だけど――それはそれとして、俺はあそこのクロワッサンが結構気に入ってしまった。なんせ店での手作りで低価格で食べやすくて、腹の減りやすい中学生時分だ。俺はよく帰りに立ち寄って、何個か買うようになったんだ。食いながら河川敷を歩いて帰ったりしたっけな。そういう日の夕暮れを俺はやけに感傷的に思い出すことがある。まあ話してる今はどうでもいいことだけど。店の方もきっと俺のことを印象深く見ていたかもしれない。やっぱり、片腕だからな。もし今もあるなら、訪れただけで俺だってわかるんじゃないかな。
 その店は当然俺だけの店じゃないから、他のお客さんもやってくる。その一人が、清瀬だったんだ。
 ノートをぶちまけた日じゃなかったけど、その日からそう時間は経ってなかったように思う。相変わらず俺は、自分がこうなってしまった運命か、学校の奴らにか、空腹感にか、何に対してかわからないけどむしゃくしゃしながらクロワッサンを買っていた。
 何とも変てこな組み合わせだと思うぜ。中学生の片腕のいきがったガキとフランス生まれのお洒落で小さくて可愛いパン。その日は特に腹が減っていて、その所為で余計にいらいらしていた。店の扉をやや乱暴に開けて、つかつかレジに向かってクロワッサンを三個ほど買った。そしてさっさと帰ろうとしたら、俺とは違って優しく扉を開けて入ってくる客の姿が見えた。清瀬だった。
 帰ろうとしていた俺と店内に進もうとしていた清瀬は、ばっちり目が合っちまった。俺はクロワッサンをそのまま齧ろうと、二つ入れた袋はショルダーバッグに、一つを右手に持ってたもんだから焦った。
 俺は、こんなもん食ってるところを、こんな至近距離で知ってる奴に見られたくないとずっと思ってたから――店内だってことを忘れて怒鳴っちまった。かなり理不尽にだ。つけてくんなよ、気持ち悪いんだよブス! ってな。絶対顔は赤くなってた。熱さでわかった。そしてそのまま店を飛び出した。

 しばらく走って、息が苦しくて喉がひりひりしだした時に俺は別の部分の痛みも感じた。こういうと恥ずかしいが心とか胸とかだな。良心ってやつか。自分がさっき清瀬に放った言葉をもう一度呟いてみた。つけてくんなよ、気持ち悪いんだよブス。
 何度も繰り返した。とぼとぼ歩きながら冷静になってそれを聞いてみると、何とも言えなくなった。食欲? そんなもん夕日に溶けて消えちまったよ。清瀬は何も悪いことをしていない。その店にたまたま来ただけで、たまたま俺と会っただけだ。俺はそんなひどいこと言える立場じゃ、全然なかったのに、何てこと言ってしまったんだ。そう思った。

 自己嫌悪が吐き気と共に込み上げてきたけど――別にパンを吐きはしなかった。ただその日はもう何も食べられなかった。かと言って、何だかきまりが悪いもので、次の日会っても目を逸らすだけで謝ることが出来なかった。清瀬の方もどことなく俺を避けるようになった。その辺りのことも、思い出すと胸が痛むな。切なさが際限なく溢れて、溺れてしまいそうになる。



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