男は上体を起こした。机の向こう側には女はおらず、キツネもいなかった。本が崩れてもなく、誰かが研究室に入った様子もなかった。しばらく男の呼吸の音しかしなかったが、ブンと冷房が運転を始めて、微かな電動音が聞こえてきた。
夢を見ていたんだな、と男は頭を掻いた。
夢で死者に逢うことは奇跡でも何でもない。
あの玉水の姿や伝えた言葉は、自分の深層心理だろうし、何だか視界がぼやけていたり、女のことをすぐ玉水と思えたのも夢だからだろう、と男はやけに淡泊に分析した。そうしなければいけないかのようだった。というのもそれは、さっきまで否定していた死者に逢うことが夢で叶ってしまったことに対して癪に障っているためだと、男は認めざるを得なかった。本当の玉水が出てきたわけではない。
それでも、と男は目蓋を閉じた。
君と私がこの世界で出逢えたことさ。それが奇跡さ。
私が君に出逢ったこと、君が私に出逢ったこと。
私が君を好きになったこと、君が私を好きになったこと。
そんなこと全てが、奇跡なんだよ。
気付くと男は手を組んでいた。何かに祈るようだった。そして涙を流してもいた。
男は奇跡をついさっきまで厭っていた。書物を開けば展開されている奇跡に失望を感じた。奇跡を何の疑いもなく信じられた昔を羨み、憤った。
起こるはずがないことを理解しながらも、それでも奇跡を願わずにいられなかった自分を、いや人間全体を蔑んでもいた。
だがしかし、奇跡は――大抵の場合は奇跡からは到底程遠い位置にいるそれは、とうの昔に起きていたことを、男は知ってしまった。
男は強く手を組んだ。たった一つの奇跡に、ただ男は信仰にも似た感謝を心から捧げた。
そしてそれは中世、古代、さまざまな時代の、世界のあらゆる場所の人が抱いたものと同じものだと気付いた。彼等の悲しみや寂しさ、そして愛する者への想いと明日への力を――彼が襲われたそれと、彼がなおも抱き続けるそれを、時空を超えた遥か彼方から感じ取って、やはり男は泣いた。
彼の心の野原には、一匹のキツネがいた。
しばらく泣き続けるが、やがて泣き止み、研究にも打ち込み、友達とも話し、笑い、独りの時間が来ても、独りだとは感じないようになるだろう彼を想った。
キツネは一際高い声で、嬉しそうに鳴いた。
(了)