突然、男の向こう側でがたりという音がした。


 何冊かの書物が落ちたのだろう。彼の所属する研究室は本棚の数が足りず、机の上椅子の上床の上、とにかくそこら中に本が積まれているので、よく学生が足を躓かせて本を倒すことが起こるのである。今は夏休みで、学生の多くは帰省していたり遊びに出かけたりしている。めったに研究室には人が訪れない。ここには男が独りでいたはずだった。誰かが研究室に来たのだろうか。彼は顔を上げた。





 机の向こうには女が立っていた。





 涙を流したせいか、視界は不鮮明でうまく焦点が結べない。女の体の線はぼやけて見えた。
 女は中肉中背、肩までの金髪で、黒い着物を着ていた。着物という点で不審に思ったのか、男は泣き腫らした目を擦り鼻水を啜って女をはっきり見た。





 その瞬間、その女が玉水だと心が訴えた。





 疑いを挟む余地もなかった。そうなのだと受け入れ、男は目を丸くし、手を伸ばした。


「待って。生き返ったんじゃないんだ」


 女、いや玉水は少年のような声で男に伝え、自分に近づかないようにと手で制した。男は手を中空に置いたまま、置き去りにされた動物のように哀しい目を浮かべた。
 玉水はそれを見て悲しそうに笑った。
「君に伝えることがあって来たんだ」
 笑いを消した玉水はじっと男の目を見つめた。男も玉水を見つめた。世界のあらゆる音が、一人と一匹の為に道を譲るかのように姿を潜めていく。無音の中ただ一つ、古びた鈴の音にも似た玉水の声は優しく彼の耳に触れた。


「確かにね、君が思うように、この世界に奇跡なんて起きちゃくれないよ。
 死んだものに逢うことは出来ない。ここは物語の世界じゃないんだから」


 その優しさはそうやって壊しつくしたものをもう一度、砂を浚うように壊していった。


「だけど、この世界には一つだけ、たった一つだけ奇跡があるんだ」


 玉水は小首を傾げた。狐であった時も似たような仕草をしていたことを男は思い出す。
「……ねえ、賢い君は、本当はわかっているんだよね?」
 その通りだった。――賢いかどうかはともかく、男には玉水の言う「たった一つの奇跡」がこの世にあることを知っていた。しかし男はただ黙っていた。


 そのことを言うのは――何も出来なかった自分がそれを口にすることは、玉水に対してひどく申し訳ないからである。その「奇跡」を思って彼が起きあがろうとすると、弱った玉水の姿や、悲しそうにこちらを見る姿や、何も出来なかった不甲斐ない自分の姿が明滅して、男を地に伏せしめるのである。
 男はどこまでもどこまでも自分が許せなかった。この大学で一番玉水を慈しみ、面倒を見たのが彼であるが故に、彼はどこまでも自分に罪を突き付けていた。男は悲しげに眉を下げた。玉水も同期するように下げた。しかし、玉水は目を閉じて、再び開いた時に彼の名前を呼んだ。
 そしてにっこりと笑った。





「君と私がこの世界で出逢えたことさ」
 それが奇跡さとますます玉水は笑った。





 その玉水には最後に見た衰弱した様子も幻視した悲しむ様子も全く見当たらなかった。男は茫然とした。自分がひたすらに押し隠していたその存在の迫力が、まるで神々が天岩戸を押し開いた時のように自分の全存在を強く強く照らしていくように思えて、ただ驚かされた。
 初めて出逢った日がいつだったか、どんな風景の中で出逢ったのか――男は覚えていなかったけれど、色が染み出て広がるように、その遠い遠い日に確かに起きた奇跡を愛おしく想う切なさが胸から溢れ体中を流れていった。そうして、そのあんまりに当たり前過ぎて誰もが奇跡と気付けていない憐れな奇跡に、彼は再び涙を流した。
 玉水、と彼が呼んだ。うんと玉水は頷いた。




「ねえ、だからさ、何も出来なかったって、あんまり自分をいじめるのは、もうやめよう?
 私は人間の言葉を使えなかったから、君にはわからなかったかもしれないけど、
 私は君のことが好きだったんだ」




 玉水は手を伸ばした。そして男の涙をすっと指で拭い、笑った。


「今でも好きだよ。ずっとずっと好きだよ」


 まるで神や仏が降臨したかのように――それは、男が憎しみを抱いた夢幻能のように――玉水は神聖に見えた。





「私が君に出逢ったこと、君が私に出逢ったこと。
 私が君を好きになったこと、君が私を好きになったこと。





 そんなこと全てが、奇跡なんだよ」


 その笑みが、彼女の姿が、どんどんどんどん、風景に同化し、霞んでいった。
 男が何かを言う隙もなく、別れは――彼女の死の時のように――突然に訪れ終わった。








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