たったひとつの奇跡



 梅雨を抜け本格的な夏が始まった頃、ある一匹のキツネが死んだ。
 そのキツネは山にある大学によく降りて来ては人間に近づいていた、珍しいキツネだった。
 ある人は大学の精霊と言い、ある人は山の神の使いと言い、またある人は山の麓にある稲荷明神の使いだと言い、どこかの研究室で飼われている実験動物だとも、教授が学生達に秘密で飼っている愛玩動物だとも言われた。
 キツネがよく現れたのは人文学系の研究室が連なっている棟の辺りで、そこいらの学生でキツネを知らない者はいなかった。その愛らしさから一種のアイドル的存在でもあり、狐という呪術的なモチーフを連想させる種族でもある故どこか畏れられてもいた。
 だがしかし大概の場合は忙しい、あるいは怠惰な彼等の日常に穏やかな憩いを与える愛すべき存在であった。




 そのキツネをよく世話していたのは今年から院生になったある男だった。
 男はよく独りでいた。別に人間嫌いでも友達付き合いが悪いわけではないが、たまたま独りになってしまう時間をうっかりと手にしてしまう種類の人間だった。
 そういう時、よく彼はキツネに出会った。キツネの方もまた彼を待っていたかのようにひょっこりと現れるのだった。そこで彼は餌をやったり、水を飲ませたり、毛づくろいをしたり、キツネの為に時間を費やした。他の学生はただ頭を撫でるだけだったり、寄生虫を気にして遠くから眺めるだけという場合も多かったので、客観的に見て一番キツネと触れ合っているのはこの男でまず間違いなかった。
 彼の専攻は日本中世文学であった。このキツネのことをただキツネというのは味気ないので、彼だけの名前をつけることにした。男は自分の専攻や学んでいることを(ひどく何でもないことなのに)少々鼻にかけるある種衒学的なところがあった。だから狐で連想しやすい玉藻の前から玉藻を、という安易な名づけをすることは彼の自尊心が許さなかった。室町時代の物語に、玉水という狐の物語がある。彼はキツネに玉水と名付けた。


 他の学生は適当に呼んで適当に触れ合っていたが、彼の独りの時間を慰めてくれるキツネは玉水以外の何物でもなかった。他のキツネではいけなかった。








 ところがある時から玉水はひどく衰弱していった。何か悪いものでも食べたのかもわからなかった。ひょっとすると老齢だったのかもしれない。
 あまり姿を現さなくなり、男は独りの時間が無情に増えていった。最近見ない、どうしたんだろう、ということを考え始めるとそれ以外に考えを集中させることが難しくなり、彼の研究や授業の課題はあまりはかばかしい結果を残さなかった。
 最後に会った時、男に助けを求めるように玉水は鳴いていた。餌も食べず、水も飲まなかった。あの時のか細い鳴き声が彼の脳内に黒く染み込んでいた。気味の悪い断末魔のようだった。男はただ体を撫でるだけで何も出来なかった。研究室で独り、自分の掌を眺めてただ溜息をついた。
 そしてある日の昼下がり、いつも玉水がいた草むらから外れた木陰で、玉水は横たわって死んでいた。空は過ぎ去った梅雨を思わせるような、ぼとぼと落ちてきそうな不健康な灰色をしていた。発見したのはやはりその男だった。その時男は独りではなく、食堂で昼食を共にした別の研究室の院生と一緒だった。
 それでも男の顔は優れなかった。その彼に突きつけられたのが玉水の死だった。




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