行き場を見つけた風が私の耳元と襟足の髪をすくって駆け抜けた。くすくすと精霊が笑っている気がした、無邪気に。
前方には友達がいた。柵によりかかって、ではなく、屋上は自分のものですと主張するかのように、どんと中心に座っている。膝の上に置き手で支えるのは古ぼけた厚い書物だった。隠れる気はさらさらなく、思い切り読書をしているではないか。
私は肩をすくめた。この子は本当にマイペースだなあと。
「何読んでんの?」
進みながら訊く。返事までの間に私は空を見上げた。――当たり前のように青かった。健やかに澄んでいて、目の薬になる。網膜から、角膜から、神経へ、脳へ、体全てに行き渡る青の治癒の祝いは、私に黒くこびりつくカビでしかない悪い考えを払拭する。光よりも鮮やかに。
ああ。
「文学勉強しようと思って。坪内逍遥と二葉亭四迷の全集」
暢気な調子で、彼女は答える。私は瞼を一度閉じて、彼女の方にきちんと向き直るとやれやれと微笑んでみせた。いつも言われる、呆れたような笑いがきっと浮かんでいる。自分では、わからない。
「なにそれ。分かんないよ。二葉亭四迷って推理小説家じゃないの?」
「違うよ、全然違う」
ページは白というよりも黄ばんでいる。買って図書室の蔵書になって以来数回しか開かれたことが無さそうだった。まさか青空のもと天干しされるような事態になろうとは、全集側も思っていなかったに違いない。少し面白い。
「面白いの?」
「面白くないよ」
なのに彼女は笑って言った。
「受験勉強しなさいよ」
「これが勉強ですよ」
「嘘つけ」
私は歩き疲れ登り疲れたので、いい加減座りたかった。彼女の背中を背もたれにして座る。彼女はまだ読み続けている。
かくれんぼはとっくに終わっていた。何もすることはない。ページはやや黄色く、空は青く、風は暖かく、残った疲れはゆるゆるとして妙に爽快だった。そして背後にいる少女は私が死にたがっていたことも教室での醜いことも全く興味が無さそうだった。唯我独尊だった。
もはや何もかもが馬鹿らしかった。
ここから飛び下りれば死ねるだろう。だけど柵をがちゃがちゃ言わせるのも、後の迷惑を考えるのも面倒くさい。こうやって悩みに惑わされることも気持ち悪くなることもあるけれど、だらだら生きて、本を読んだり遊んだりしていくのがいい。……しかし刹那的すぎる。時代が時代なら学生運動の裁判みたいなものにかけられて、即行死刑判決が出されそうだ。
でも、いいか。
もう一度、空を見上げた。限りなく広がった青は――世界にたった一つ、空色というのだろう。
空の広がりと自分の世界の広がりと、後の少女が読んでいる文学の広がりとやらは、どんぐりのせいくらべみたいなものなのだろうか、と私はうとうとしながら考えた。
(了)