傘を下げ、開閉を繰り返して雪を払う。とんとん、とんとん、慣れた強さで地面を叩く。最後に傘を振るって雪の粒をなお払う。その表面は湿っているだろう。しかし構わず傘の生地に、手袋が包んだ指先をそっと触れさせた。
 何となく俺は思う。細かい言葉の調子、慣れた雪の払い方、そして彼女の言葉からして、きっと彼女はここの出身だ。ここを出たことがない者だ。俺と同じなんだ。死んではいないけど、俺のように無気力でも全然ないけれど。
 彼女は雪を否定した男に、微笑していた。
 どことなく、あの神の化身に似ている。
「冷たくて水っぽくて、結晶だってね、うん。ちっちゃい頃見てみたけど、見えなかった。理科の教科書に載ってたみたいな綺麗なの、一個も見たことない。がっかりしたよ。雪かきだって重さがあって大変だし、雪だるまだって作りにくいし」
 男はどこか呆然とした態で彼女の言葉を黙って聞いている。雪はなお降っている。彼女は髪についた雪を少々払って傘を開く。そこから白味の強い灰色の空を仰いだ。
 恐ろしい空だ。
「でもね」
 俺の内なる呟きが彼女の声と重なった。

「私の季節を、世界を、空を地面を、全部白くしちゃう冬の象徴は」

 彼女の息の白も、天へ吸い込まれていく。
 堕ちてくる雪が人の死ぬ速さなら、その白い息の緩慢さは魂が昇っていく速さだろう。

 恐ろしい空からは、真っ白な、清らかな雪が降ってくる。
 昇った魂が、降ってくる。

「やっぱりこの雪なんだよねえ。昔から」

 他の誰が何と言おうと。そんな言葉を隠しているかどうかなんて俺の幻想だ。けれど、まるでそう言うように彼女は凍えた白い手を傘の護りから出し、その掌を天に向けた。落ちてくる雪のベッドになる。舞い降りた雪は忽ち涙のように融けるだろう。
 面白くなさそうな少年の表情。それが見えない彼女は何を意図してか、微笑した。
 その微笑。俺には、見覚えがある。
 彼女の言葉も聴き覚えがある。言葉がそのままということではない。本質が、同じだと感じる。

 あの子は何と言っただろう。俺が想いを殺した彼女は俺に何と言ってくれただろう。消えていく記憶のしっぽを、雪の白に同調するかのように色と線を失っていくものを必死で掴もうとする。雪をかき分けるように、吹雪に立ち向かうように、俺は辿った。
 ――悪いけど、君の想いには応えられない。
 そんなのは幻想だ。俺を好きだなんてどうかしている。その想いは想いじゃないともいえるよ、本当に。さっさと別の男を見つけた方がいい。嫌いじゃないさ。でも応えられない。だから君のその想いはもう消えてしまったと言うことだ。想いは、特に恋の想いは、応えてくれる人がいないと、死んだも同然だ。
 どうしてそんな風に断ったのか。灰褐色の空がそうしろと命じたのか。俺の中で厭世感が強まっていたのだろうか。女性すべてを信じられなかったのか。それとも人間全体を信じられなかったのか。そのことについてはわからない。そこまで思い出してしまうと、掌から零れていく。掴み取った、彼女の言葉が、面影が。
 断った時、最初は悄然と肩を落とした。笑いとも哀しみともつかない表情で口が若干震えていたような気がする。どういう顔をすればいいのか見当もつかないと言うように、最後は結局苦笑していた。
 ややあって、俺は立ち去ろうとした。天候が崩れそうな気がしたのだ。風も強かったし寒かった。何もかも棄てていくかのように歩を進める俺の背に、それでも、と声が飛んでくる。振り返った。彼女は依然苦笑を浮かべていたがごくりと息を飲み、目を閉じてから、どうしただろう。
 胸の辺りに手を置いて、ぎゅっと拳を丸めた彼女が掴んだものが、俺にはきっと無いものだったのだ。
「それでも、私のこの想いは変わらないんです」
 ここにあるんです。掌を開き、胸を叩く。
「幻想だからと仰いました。そうかもしれません。想いは想いではないのかもしれないです。まやかしだったり、一時の迷いだったりするのかもしれないです。自分の想いがそうだ、と言うわけじゃないですけれど」
 でも。でも。
 言葉を重ねる内に気持ちが固まっていったのか、彼女の笑顔はどこか晴れやかだった。
「私の想いは変わらない。想いを伝えられただけでも良かった」
 その時に視界をちらちらと遮るものがあった。雪だった。あ、と彼女はしばし上空を見つめ、掌を向ける。雪は、彼女の中に花びらの如く落ちていっただろう。
「この雪みたいです」
 言葉の意図がわからない。首を僅かに傾げる俺に彼女は笑う。
「ここの雪は普通の雪とは全然違うんですって。質も、降る速さも。よくわからないんですけど。でも、私にとっても、ここに古くから住む人にとっても雪はこの雪でしょう?」
 想いもそれと同じです。そう言い花びらの雪を、はらはらと落とした。
「誰が何と言おうと、どう否定しようと、その想いが想いでないと言われても、私にとってはただ一つの想いです」
 あなたが好きです。応えてくれなくても。

 その時の微笑と言葉が、頭を心を、真っ白にしていくような気がした。
 想いを殺してなんかいなかった。彼女の想いは死ななかったのだ。殺しただなんて、そんなのは俺の思い込みに、驕りに、怯えに過ぎなかった。
 そんな都合のいい話あるわけがないと、俺は何も言えずに背を向けた。それから彼女に会うことはなかった。その想いに応えようかと悩んだ。だがああ言ってしまった手前、そうするのが正しいことなのかわからなくなった。そうしている内に、俺の方が死んでしまった。死と悩みに因果関係はない。だけど、俺がそんな葛藤を抱えて死んだのは事実だった。

 俺は死んだ。
 それでも彼女の想いは、まだ在るだろうか。

 俺が呆然としている間に二人は行ってしまった。どんな話をしているのだろう。男は彼女の言葉にどう感じただろう。不愉快になっただろうか、理不尽を感じただろうか。自分の正義を振りかざそうと一方的に怒声を挙げていないか心配だった。だが聞こえない。高圧的な男の声も、母性を感じさせる声から一転したようなヒステリックな女の声も。その考えを肯定する声も、雪を否定した非を詫びる声もしない。それを笑って許す声もしない。
 聴覚が、どんどん白に染められているのかもしれない。
 当たり前か。俺は死につつあるのだから。
 いや、死んでいるのだから。魂が消えかけているのだから。考えても見ろ。あの老医師から言われた日数は、もうあと少しで終わるどころではない。
 今まさに終わっていく。彼女の真意を、彼女の人となりも何もかも全て探ることが出来ないまま、俺は臆病で終わっていく。臆病な魂はきっと多くの者に嘲笑されるだろう。

 雪はどんどん速度を増す。僅かに見える緑や土を再び塞いでいく。
 そのスピードで、心が白くなっていく。

 意味はないだろう。俺が彼女のことを思い出したからって何だと言うのだ。俺はもうあと数時間もすれば別の誰かになってしまうのだ。人間ですら無いのかもしれないのだ。だがそんなことに悲しむ暇も後悔する時間も与えずに圧倒的な白が包んでいく。あんなにも恐ろしい空からそれは降る。どこか、救済のように。

 恐ろしい空。女のようにさめざめ泣く空。そんな風に揶揄される空。愛されない空。
 でも、俺にとっては唯一の空だ。

 誰が人の想いを否定することが出来るだろう。誰が幻想を壊すことを許されているのだろう。
 誰がその想いの真偽を決めつけることが出来るだろう。

 誰にも奪えない、否定も出来ない空から舞い降りた美しい雪が、俺を優しく食みにくるのだ。
 確かに、重くて硬くて汚くて、湿り過ぎた雪だ。誰からも愛されない雪だ。
 それでも空と同じだ。この地に、唯一とも言うばかりの白き輝きを与えてくれる。
 たった一つの雪。天からの使いの雪。
 怯え続け、避け続け、徒花を散らした俺を許すように、仕方ないねと笑うように白は包んでいく。
 今でもあるかもしれない彼女の想いに、触れたような気がした。
 きっと、真っ白い想いだ。清らかで純粋な、俺への好意。愛と言う何か。
 やがて全てが白になるだろう。あの煉獄の病院よりも真っ白になって、俺は俺でなくなる。何かが始まるんだろう。そこに俺の記憶はない。

 けれど。
 想いは、あるかもしれない。

 そうかい。老医師の声が聞こえた。本当にあるのかい? その問いに、立派なものじゃないです、愛でもないでしょうと返す。

 でも信じることは出来ます。たとえ消えたとしても。
 ここに降る雪を雪だと信じているように。ここの空を認めているように。

 そうやって俺は老人に、神に笑うのだ。
 彼女のように、笑えていればいいのだけど。







 通り過ぎていったあの少女が、あの少年が、二つの違い過ぎる雪が互いにこの白に包まれる日が来ることを、俺は祈る。この魂をいよいよ終わらせる俺の最後の祈りだった。
 そして最後の希望はきっと彼女の元へ。
 希望。何だろう。彼女の俺へのその想いが消えませんように? 彼女にいい男が現れますように? 彼女に幸せが沢山訪れますように?
 希望も想いも言葉には出来ないなら、何かに託されるのだろう。
 それは例えば、舞い落ちる雪のように。

 もしかしたらここの雪は、誰かの想いを背負って速く降るのかもしれない。



 何でもいい。ただ願う。

 そのスピードで、俺の最後の煌めきが彼女の元へ、どうか、届きますように。


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