雪の降る、そのスピードで




 人は死んでからどこへ行くかという質問に、とりあえず俺が経験し、そしてこの先はきっと覚えていない記憶をそのまま答えるなら、真っ白な病院へ行くのだ、と答えるだろう。死人みたいな無表情で。安らかな表情で。
 でもこれは俺個人だけのものなのかもしれない。人間には一人一人違う死後の世界と言うものがあるとか、そういう仕組みになっているということだ。仏教を信じる人なら極楽か地獄、キリスト教を信じる人なら天国か、これも地獄か。他の宗教はどうだろう。よくわからない。これといって何を信じていたわけじゃない俺の場合はその真っ白な病院と言うわけだった。夢で見たこともない。何かの本で読んだわけでもない。どこかで見たようなと思えばそうなるし、全然知らない所とも言える。強いて言えば通っていた病院とか学校とか、実にありふれた景色に重なりもする。
 白い病院。骨の粉が舞っているかのように視界に映るもの全てが白くけぶっている。けれど寒くもなく暑くもない。温度も質感も何もかもが無に帰すような場所だった。俺の着ている服も白い。
 白髪で顔には皺が目立ち、好々爺と言った趣のドクターは穏やかに微笑する。実に、様に合っていた。怪訝そうに、けれどもどこか無気力に見つめてくる俺に、彼は丁寧に説明してくれた。
「ここは言わば、ある宗教で言うところの煉獄に近い場所だよ」
 別の宗教で言うと四十九日を過ごす所だね、と続ける。
「ここから出てもいい。君は魂だ。どこへでも行ける。ここに留まってぼんやり過ごすことも出来る。快活に過ごせたりも出来る」
 ご覧と窓の外を指す。白い日光が降り注ぐ中、白い服を着た少女達がテニスコートで元気よくテニスをしていた。中学校や高校の頃の昼休みを思い出させる。でも彼女達は既に死んでいるのだ。生まれ変わりや裁きを待つその時までの仮初の友達ごっこ。微笑は浮かぶ寸前で立ち消えた。テニスコートの向こうのベンチでは腕と肩をだらしなく広げて背もたれにもたれている男の姿も見えた。白い煙が立ち上る。煙草の煙。
「どこへでも行けるよ。この地球上に限るけどね。家のトイレでも近所でも海外でも。あんまり難しいところへは行けないけど。そしてあまり近しい人に会い過ぎてはいけない。気付かないうちに未練という鎖が君を絡め取る。上手く転生出来なくなる」
 また人間になりたいだろう? と老医師は手を組んだ。尤も生まれ変わったところで記憶は引き継げないんだけどねえ、とくだらない手品のタネをばらすかのように申し訳なさそうに笑った。ではあなたは誰なのですかと、ばらすついでに訊きたい。神様? 仏様? だが俺は何も訊けなかった。無気力だった。そうだろう、死んでいるのだから。訊いたところでそれが何の役に立つのだろう。
「君は何かやりたいことはあるかい」
 その無気力を見越したように老人は訊いた。何も。真に無気力だったらそう返していただろう。けれども俺には一つの光景が浮かんでいた。ここの白と同じくらいとまでは言えない白を思い出す。濃い灰色に裏打ちされた重たい白の空と吹き荒ぶ白を想う。
 座り心地のよくなかった椅子から立ち上がる。軋む音が鋭かった。この椅子も死んでいるのかもしれない。あるいは近いうちに。

 俺は言った。故郷の雪を見ます。雪の観察をします。と。



 俺はとある事故であっけなく亡くなった。なんとなく予感はしていたのだ。そして俺はその予感を否定する程熱い渇望や厚い信仰や溢れる希望を持たなかった。形に出来ない焦燥のような迷いだけが体に蠢いていた。徒花だった。誰かの人生を彩ることもなく死んでいった虚の花だった。失われていく何かに手を伸ばすことが、俺には出来なかった。
 その結果、俺はこうして雪を見ている。地面に積もればいいが、積もらずにその場に消えていくこともままある冬の象徴達。花弁のようなそれらは春の為の徒花になるんだろう。死んでいった俺みたいなものだ。だが今俺の見ている雪は、どうやら積もりそうだった。冬場のよくある天気だ。夜から未明にかけて大雪になり、交通機関が止まったり大幅な遅延を引き起こす。人はでこぼこの雪道を通る。時にこけ、時に滑る。人間を嘲笑うような雪に、子供達だけが遊んでやれる。
 国の裏側、大きな海と灰色空を抱えたこの地方に降る雪は湿気を多く含んでいるらしい。らしいと俺が言うのは、俺がこの田舎を出たことがないからだ。田舎以外の雪と言うものを俺は触ったことがない。
 他方から、特に他の豪雪地帯から来た人達は言う。ここの雪はおかしいと。こんなにべたべたしていて、払いにくい雪は雪じゃねえ、そうげらげら笑った。俺はここの雪が呪われていると言うことを初めて知った。何年前のことだっただろう。
 呪われた雪は今日もこの土地を呪っていく。昨日も一昨日もそう。明日も明後日も、俺が死んでも変わらない。哀れなる雪の花弁達は荒れ狂う巨大な魔女の腕の如き強風に襲われて、飛び回りそして堕ちていく。哀しみの重い雫を土地に吸わせていく。呪われた土地は人を呪う。人から生きる気力を奪っていく。俺があっけなく死んでも仕方のない話だ。
 一つ、瞬く。睫毛の先に雪が触れた気がするが、俺はもはや実体を持たない。だけどもし体があれば、ゆっくり下ろした目蓋に二、三は積もるかもしれない。量はそれなり。速さはいつも通りだ。いつも通りのスピード。俺の知る雪の速度。
 雪の降る速さも、他とは違うらしい。
 ここに来る前一度だけ別の地方の雪を見に行った。穏やかなものだった。つい急ぎ過ぎたり忙しいと思いこんで自滅に追いやってしまう現代人の背を優しく撫でるように、癒すような緩慢さで一つ一つ、地面に雪の花を咲かせていった。なるほど。この速さなら俺達の地方の雪が異常なのも実によくわかる。受け止めていたはずの事実はより深く俺の中に入りこんでいった。そう、その穏やかな速度と裏腹に、矢で射るよりもうんと早く。
 生き急ぐように雪は降る。本当は醜い己の姿を隠すように何度も重ねんとして降る。
 ずっと正しく雪だと思い込んでいた雪が清らかなものではないことを知った。重たくて湿っていて忌み嫌われるものでそのくせ、大した量で無いとすぐ消え去ったり無理やりにでも溶かされてしまうものだと言うことも、もう俺にはわかり過ぎていた。そうだ。俺は子供じゃない。
 子供じゃない。思い出が雪のように重なって融けることもない。こびりついて、春が来てもその汚らしさを見せつける雪の塊だ。思い出したくもない過去を、繰り返させる。
 雨のように降る雪を見て、俺は思い出していた。

 もう顔も思い出せない女の子から、俺は告白されたのだ。
 だけど俺はその子の想いを殺した。鬱陶しい雪のあの日に、目の前で断ち切った。
 そして刺すような冷たい雪のいつかの日に、俺は命を失った。

 それらのことが俺の死と因果関係にあるとは思わない。俺が死んだのはよくある冬の事故の一つだ。車のスリップ。夜と言う視界の悪さ。雪だって降っていた。誰かが俺を殺したんじゃない。作為的な悪意はただ一つだ。因果もただ一つだ。何にも続かない。俺の死を導かない。
 俺が彼女の想いを殺した。それだけだ。

 じゃあ訊くがね。

 ここにはいないのに、あの老人の声が聞こえた。
 君がここで雪を見たいと言ったことにその彼女は関係しているのかね。ほんの少しでも。彼女のことを、どこかで君は思い出さなかったかね。ほんの少しでも。それこそ、天から堕ちる雪の一かけらほどでもだ。
 ここには誰もいない。俺の幻聴だ。だから俺は答えない。
 答えない、答えない。ただ雪を見る。観察したところで何がわかるわけでもない。ここで持ち帰った思い出が次回の人生に、犬だったら犬の一生に、虫だったら虫の一生に役立つわけがない。そもそも全て忘れてしまうのだ。忘れてしまうから、家族にも友達にも会いに行かなかった。

 俺は忘れてもいいものだけを見ている。この雪を見ている。
 春になれば誰からも忘れてしまうものを、結末も知らず俺は眺め続けていた。

 時間の感覚もない。空は煙った灰色だが明るいから、昼だろうか。ある河川敷に立ち、ただ雪を眺めている。犬を散歩している人もジョギングする人もおらず、川には鴨もいない。伸びすぎて川を侵食する葦が雪と共に風に煽られていた。多分今日は平日だ。休日でもこんな日に外に出ようとする奴はいない。こんな川に、雪に、誰も用事なんか無い。それに雪は、誰もが嫌うものなのだ。
 掌を向ける。雪は、幻の俺を通り過ぎていく。
 体を持っていれば張りついていたことだろう。人々の手先や爪先を凍えさせただろう。ただ汚くこびりつく様は何かに泣いて縋る女のようだ。尤もそんな女フィクションでしか知らないけれど。この灰色空だってそう。空をひっくるめて雪だけでなく雨も多いこの街を、皆はこう言うのだ。泣き続けるしみったれた女みたいだと。
 誰にも愛されない雪は、まるで死にゆく人が堕ちていくようにこんなに速く降る。
 誰にも慰められない空は、雪であろうと何であろうと雨みたいに、涙みたいに降らせる。
 しとしとと、ぱさぱさと、ざくざくと。

「雪はさあ」

 私の後方から突如声がした。振り返る。大学生だろうか、講義が休講にでもなったのか一組の男女が歩いていた。ポケットに手を突っ込んでいる男の発言のようだった。傘に雪がこんもりと積もり、文字通りスノードームが出来ている。
「こんなに速く降るもんじゃねえんだよなあ」
 男女は歩道に出ず河川敷を歩いていくようだ。近所の住民の散歩道だからだろうか、ある程度雪かきされているとは言えまるで獣道、ささやかなものだ。少々歩きづらいであろう。男はエンジニアブーツを濡らしていて女の方はファッションブーツに見える長靴を履いていた。足取りは彼女の方がしっかりしている。
「ゆっくり降るんだよ。お前はわかんねえだろうけど」
 視界が悪くなったのに苛立ったのか傘を一度畳み雪を払う。とん、とんとん。その音が一度止み、しばらくしてもう一度繰り返される。そう。何度か地面を叩かないと、そして傘を振るわないとこの地方の呪われた雪は落ちないぞ少年。なんて、年はそんなに変わらないだろうに俺はそう心に呟いていた。
「こんな風に頑固につくもんじゃねえし、もっと本当はさらさらしてるんだよ」
 少年はどこか腹立たしさを込めて言った。
「水分多すぎで雪の結晶だって見えねえし」
 俺は頷く。少年には勿論俺の姿は見えていない。
 何もかもが真理だ。ここの雪は世界のあらゆる雪の裏だ。雪の姿をした裏切り者だ。
 ほんと最悪な雪だよな。
 少年は言う。俺は頷く。
「ここの雪は雪じゃねえんだよ」
 少年は言う。俺は頷く。何度も頷く。悉く真実のそれに、俺は頷きの拍手を送る。この静かなる喝采を止める者はきっといない。この地方出身の俺がそうなのだ。さあ、お嬢さん。俺は気障ったらしく彼女を呼ぶ。距離もあるが傘に隠れて表情がよく見えない女。少女。さあ否定してしまえ。きっと君も余所者だろう。

「それでも」

 雪の降るような、声色だった。
 鈴の鳴るような、クリスマスの時期のメロディを思い出すようなトーンは続ける。

「私にとっては、ここに降る雪が雪だよ」

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