駅までの道すがら、詩穂だけが喋り続けていた。僕の方は実のあることは何も言えず、ああとかふうんとかへえとかとてつもなく軽い相槌ばかり打っていた。言葉は風船のように空へ飛んでいく。いつも大体そんな感じだから不思議ではないのに、詩穂は敏感だった。
「もう! かんちゃんどうしたの? 具合悪い?」
 ちゃんと僕の目の前に出てきて、これまた胸を張るように言う。しばらく腰に手を当てて、頬を膨らませまでして仁王立ちの様子で僕の返事を待っていたか、その姿は恥ずかしいのだろう。黙っていると見る見るうちに表情が落ち込んだものに変わり、体勢は元に戻った。
「……ちょっとね、考えごとをしてたんだ」
「? 何か絵本の白いうさぎと黒いうさぎみたい」
 その絵本のことは知らなかったけれど、詩穂は微笑んで腕を組み、詩穂ちゃんが聞いてあげようじゃないのさ、といかにも頼りがいのある強気な声で言った。早くしないとこの体勢もすぐ元に戻ってしまいそうだ。
「詩穂はものすごい確率ではずれを引いたのかもしれないってね」
 言葉を吟味するように目を閉じたが、それでも要領を得られないようで詩穂は首を傾げた。
「何それ? さっき私が買ったペンのこと? あんなに悩んだのに外れとは、何も知らないくせに、かんちゃんてば」
 失礼しちゃう、とぷりぷりした様子で顔を背けた。でもそのことではないと気付いたのだろう。ゆっくりこちらを向く。眉尻は下がっていたが何も言わない。僕も何も言わなかった。
「……詩穂は僕というはずれをそれはそれはすごい確率で選んだんじゃないかって」
 思ったんだ、と僕は二、三歩車道側から離れた。
「……はずれ? かんちゃんが?」
 言葉は、ぽかんとしたように放たれる。
「自分が貧乏くじだって言うの?」
 彼女もまるで僕の影のようにこちらに寄る。ぷりぷりとした顔ではないものの、やや眉根を寄せて僕を見る表情にはある特殊の感情が浮かんでいた。もう! と予想した通り、腹の中で何かを破裂させたような声を出した。
「何でそういう風に言うかなあ! 私は、かんちゃんのこと大好きなんだよ!」
 そりゃあ愛情表現は少ない方かもしれないけど、と、大好きという言葉の勢いを消しゴムでぎこちなく消して紛らわせていくように、詩穂はすごすご首をひっこめていく。その台詞は、本当なら僕が言う方が相応しい。けれど恥ずかしさゆえか彼女はそれに気付いていない。
「あのペンでふとそう思っただけだよ」
 大好きと言われて本当は嬉しいけれど、至って何てことないように言うのは僕が天邪鬼な性格ゆえだろう。
「ほんっと、かんちゃん意地悪……」
「……でも、考えてごらん」
 思いつきは時に思いもよらないものと結びついて、僕らに問題を与える。そんなこと考えてどうするんだ? そう言いたくなるようなものを。

「様々な選択をして、沢山のくじを引いて、いろんな当たり外れを経験して――
 そうして出来上がった自分の人生をすごく良かった、満足してる、最高だ――そう言える人なんてどのくらいいるのかなって」

 今まで無視してきたから少しくらい考えていいだろう? そう甘く無邪気に、けれども、同時にものすごく禍々しい意図を込めて笑う。そうやって出題者は僕に訊いてくるのだ。

 ねえ、君の今までは本当に「良かったもの」なのかい? もっともっと、こうしていれば、ああしていればと思うことはないかい? いっぱいあるだろう? ねえ、そうでしょ? そんな風に訊いてくる。それこそ甘えたりからかったりしてくる、愛する彼女の詩穂のように。でも詩穂は、そんな残酷なことは言わない。

 ――詩穂にそう問いながら、けれども僕は出題者の気持ちにはなれなかった。なれなかったし、答えられなかった。そもそも人間がそんな気持ちで人間に何か問うのが間違いなのだ。してはいけないことなのだ。

 けれども詩穂は、僕から目を逸らしながらもちゃんと答えようとする。詩穂は強い子。私は、と少し言葉を迷わせつつこう言った。
「私は、よかったって、思ってるよ。そりゃあ、まあ、いろいろあったけどさ」
「本当に?」
「もう……何なのさ、かんちゃん!」
「本当にそう?」
 自分でもぞっとするほど冷たく聞こえる。
「もっと自分にはいい人生があったと思わない?」
 詩穂を攻撃するように言っている風に見えて、その実、僕は自分自身の肉を抉るように訊いていた。
 詩穂はこんな酷いこと訊いたりしないのに、僕は訊いてしまう。僕自身も詩穂をも傷つける言葉のナイフを、どこか滑稽に振り回す。

「あの時、ちゃんとあの人やあの先生の言うことに従っていれば。あの辛さを何てことないと思って堪えていれば。
 もう二度とごめんだと思っていてももう一度耐えれば華々しい未来があったかもしれないのに。あるいは、もっと粘っていたら、あるいは別の興味を抱いていれば」

 そう。多分僕は詩穂と対話しているのではない。僕は僕を追いこもうとしているのだ。自虐。それ以外の何だって言うんだろう。付き合わされる詩穂が気の毒だ。あるいは、と僕がまた矢をつがえようとした時、もう! と詩穂が爆発した。
「本当だよ! 私は私の、今までの人生よかったって思ってる!」
「本当にそう?」
「……本当だよ」
 爆発の後、急に冷え込んで石になる何かのように、弱々しく言う。ぴたりと固まってそれこそ石のように動かない。
「……強がってるの、わかるよ」
「だって……そうじゃない」
 詩穂は僕を見ていない。ただ自分の影が落ちているだろう真下のアスファルトを睨みつけるように顔を下げていた。
「……私が、私がこうしたらいいって、そう思ってやってきた人生なんだもん。後悔したくないし、誰かにいちゃもん付けられたくもないよ、それはかんちゃんにだってそう!
 私はね、否定したくないの。今の私を創ってきたあらゆることを」
 小さな体が震えている。視界が不鮮明になりつつある宵の中でも、僕はわかる。
「嫌なことなんていっぱいあったし、間違えたなって思うことだっていっぱいある。でもそれをひっくるめて私でしょ? かんちゃんならこの程度の理屈くらい、わかってるはずだよ! 何で……何で」
 その右手がすっと上がり、自分の頬にあてがわれる。
「……泣いたらみっともないよ」
「泣いてない」
 ないない、と頭を振る。僕は詩穂の傍に立ち、そっと彼女の髪を撫でた。

 ――彼女は漫画家としてそれほど売れっ子というわけではない。漫画家になるのを親や兄弟に反対されていたし、今でも和解出来ていない。それに、実は原稿の合間にひっそりバイトしているし、好きなものを買うのも結構我慢している。自分の絵柄が定まらないと泣いたり、ストーリーに無理があると悩んだりもしている。漠然と「もっと上手になりたい」と弱音も吐いたりする。ネットで上手なイラストを見ては、自分より年下で、更に才能も段違いの子がきっと近いうち沢山デビューするんじゃないかと戦々恐々としていることもある。ただただ自分の――詩穂にしか感じられない実力の無さというものに打ちひしがれて、ずっと部屋に閉じこもっている時もある。

 元気で溌剌としていてお調子者で暢気で、僕に対して自信満々であろうとするけれど、本当は脆い人間だということは、僕が良く知っている。
 それでも彼女は、ああ言ってのけた。
 虚勢でしかないのかもしれない。弱くて臆病な自分を追い払う魔よけだったのかもしれない。それでも。
「泣いていいんだよ」
 やだ、と声に出さず頭を振る。
「……いいんだよ。僕が君を甘やかしたいだけなんだから」
「そんなこと言わないでよ。……泣いちゃうじゃない」
「だから、泣いていいんだよ」
 動作の問題じゃないよ、と顔を上げた。本当にぎりぎりのところで抑えているのだろう。涙を抱えた目は恨みがましく僕を見る。
「弱い自分は嫌いなの」
 嫌いなのに、と言ったが早いか、大粒の涙が詩穂の頬を転がった。そしてそのまま意識を失うかのように僕の胸にふらりと体を倒してきた。彼女の想いと我慢の雫が僕に伝わってくる。暖かい。熱い。うっかり触れたら、命を落としてしまうだろう。人間の、様々な感情や想いが押し込まれた涙は、それくらいのエネルギーがある。

 ましてや大好きな詩穂のものだから、僕は自分自身を一生詩穂に捧げてしまうだろう。
 ああ、僕は何てものを詩穂から溢れさせてしまったのだろう。

「私、弱くてもいい」
 涙色の声が、僕を震わせる。
「大した漫画も描けない奴が何言ってんだとか、負け犬の遠吠えだとかって、言われたっていいの。それでもいいの。そんなの関係ないの。
 私は、私がここまで生きてこられたこと、こうして今生きてかんちゃんの胸でわんわん泣いてること、全部全部よかったって思ってるのよ」
 ぐい、と涙を僕の服で乱暴に拭いて、そして自分の腕でも拭う。すん、と鼻水を啜って詩穂は僕とまっすぐに向き合った。
「かんちゃんに会えて、かんちゃんと恋人同士になって、緩くお付き合いしてって、それで、ファミレスでだべったりすることも、何の目的も無くふらふら買い物に出掛けたりすることも、こうやって変な言い合いしてるのだって、良かったって思ってる!
 それがたとえ他の、何にも知らない人からハズレだとか貧乏くじだとか間違いだとか言われたって、そんなの知らないよ! くそくらえだよ! 私はよかったって思ってるのよ!」
「うん」
 そんな、とてつもなく軽い相槌のような答えと同時に、詩穂を抱きしめる。深く深く重く抱きしめる。そのまま手を振り足を鳴らすようにわめき出し、仮想敵に対して怒り出しそうだった詩穂は、勢いが行き場を失くし、しょうがないとでも言うように僕を抱きしめ返す。
「かんちゃんもよかったって思ってる?」
「そりゃあ自分を貧乏くじだと思う程度にはね」
 まったく、と言いながらまた抱きしめ返してくる詩穂はきっと満更でもない笑みを浮かべているのだろう。ところが、あれ? と何かに気付いたようにきょとんとした呟きを漏らすと、詩穂は僕を抱きしめるのをやめた。
 そしてまじまじと僕を見てくる。
「……かんちゃんが私を甘やかせようってしたんじゃなくて……もしかしてかんちゃんが私に甘えたかったんじゃないの?」
 随分ひねくれた甘え方だったけど、と首を傾げた。僕の方もきょとんとして頬を掻く。そうなのだろうか? とも思うけれど、なるほど、それは言えているかもしれない。
 思い当たる節といえば、精々今日の仕事がいつもより過酷だったことだろう。しがないフリーターでしかない僕は仕事場で何者にも頭が上がらない。ただ働きアリのように人の指示を仰いであっちからこっち、こっちからあっちと働くだけだ。そこに僕という人間の個性は全く反映されない。今日は一段とそれが酷くて、知らない内に結構凹んでいたようだ。
 一方詩穂は、売れないとは言いながらも、家族の反対を押し切って自分の夢を叶えて、そして今もなお追い続けている。自分自身を高めようとしている。仕事に熱意を持っている、と言えるだろう。僕とは全く正反対、大違いだ。ファミレスの会計だって彼氏に払わせるのではなく自分が奢るのだ。何とも格好良い。

 甘えるというよりもただの八つ当たりじゃないかと気付いたが、さすがに格好悪く、また非道でもあったので、ここは一つ言わないでおこう。

「……そうかも」
「そうかも。じゃなーい!」
 詩穂なら僕の身勝手な酷さに気付くかもしれない。けれど、ぽかすか僕の背中を叩き、そしてそのまま手を繋いでくる彼女の暖かさに、今はただ甘えた。浮かんでいる笑みがそのままずっと続けばいい、僕にだけ見せてくれればいいとさえ思って、僕はぎゅっと――自分からは滅多にそうしないのに、手の繋がりを強めた。

 こうして愛しい彼女と手を繋げる奇跡が、今ここにある。

 そのことに気付いて、僕は何気ないふりをしながら空を仰いだ。そして歩んできた人生に、過去のあらゆる僕達に、そっと感謝の言葉を捧げた。
 ありがとう、とたった一言だけだったのに、その言葉は悠然と舞い上がって遥か遠い時空を遡る旅をしていく。旅路の途中にいる僕に未来からのそれは聞こえない。それでもどこかで繋がるような気がした。
 その時、ふと気付く。

 そう、僕も詩穂も、旅をしてきたのだ。沢山の選択をして、沢山の未来を切り捨てて、沢山の糸を繋いで、ここまで旅をしてきたのだ。とてつもなく途方もない長い距離と時間を。確かに、もっといい未来があったのかもしれない。客観的に見て相対的に見てもっといい自分の将来があったのかもしれない。
 でも僕は、今の、しがない自分が彼女と手を繋げている現在から、とてもじゃないけど移動したくない。面倒だとか戸惑うからとかそういうことではなく、心から今を願った。
 いつも冷たいから信じてくれないかもしれない。

 だけど僕は君が好きなんだ。
 君が好きだから。

 ぎゅっと手を握ると、詩穂は一瞬戸惑ったようだったけれど、呼応するように握り返した。


 ――その旅は、まだまだ続いていく。
 続けていくのも、悪くない。


  3 
novel top

inserted by FC2 system