一体、私はどこを走って、どこで眠りに落ちてしまったのだろう。
 会場にあった医務室のようなところだろうか……白いベッドの上に横になっていた私は時計を確認してみると、あれからもう随分時間が経っていた。会場もすっかりお開きになっているに違いない。第一主役がいないのだから、早々に切り上げてどこか別の場所で二次会でもして盛り上がっているかもしれない。
 別に悲しくはなかったし寂しくもなかった。しかしこうなってしまったことを考えてあいつのことを想うと、悲しくなりもしたし、寂しくもなった。
 あいつはどこにいるのだろう。あいつの花束は、もうどこかに片付けられてしまっただろうか。捨てられてしまっただろうか。あの少しだけ見た花束を頭の裏で思い浮かべると、ひどくその花に触れたくなった。触れてあいつの残った熱を少しでも感じたかった。


 とぼとぼ会場へ向かう。もう閉まっているだろうに、私は向かわずにいられなかった。もしかしたら、あいつがまだそこにいるかもしれないという儚い予感もあった。そして歩を進める中で、何であんなことをしてしまったのか考えた。嫉妬、やきもちとは違うだろう。自分の中に育つあいつへの興味関心――いや、なんだろう、恋心だろうか、それが思いがけなく大きかったからだろうか。あんなくだらない奴に、私がたった一つの心を向けたことが、悔しくてならなかったから? あいつが時間をおいて、なのに何の変化もなく現れたから?
 もう全部一言に括って、単純化してしまう。
 私があいつを、好きだから?


 私は、会場の扉を開いた。
 瞬間、私は顔をしかめた。鼻腔をすえた鉄の匂いが撫でて通る。何なのだろう。まるで私が無残に鼻血でも流しているようじゃないか、とこんな時なのに愚にもつかないことを考えてしまう。中は暗く、明かりを探して壁伝いに歩き、何とか光源を探し出せたので部屋を照らしてみて私は――絶句した。目の前の光景を疑って、現実から幻界に軽く突き放されたが如く感じた。

 そこには血の海が広がっていた。

 私の大切な人々――有能で、有意義で、友好的な人々、そして取り巻き達が、あるいは胸を突かれ、あるいは背中を刺され、肉を抉られ、いくつもいくつも血溜りの水玉模様をなして白いカーペットの床を彩っていた。目はどれも明後日の方向の冥界に向けられ、自分達に訪れたあまりにも唐突な最期を閻魔に訴えていた。そう状況が確認出来るまで、私はどのくらい茫然と立ち尽くしていただろう。

 誰かに殺されたのだ。誰か? いや複数だろう、こんな風に、必要以上に、ただただ残酷に人体を傷付け大量殺戮を犯すのは一人で出来まい。私がここに来るまでこのままだということは、この会場のスタッフも殺され、通報出来なかったということだろうか? 思えばここに来るまで誰か一人には会いそうなものだが、誰ともすれ違っていない。
 ここに生き残ったのは私一人なのか? 犯人達はここにいるのか? ――私は、大切なことを忘れていた。

 あいつはどうした?

 私を追って、でも結局追いかけるのをやめ、どこかへ行ってしまった? だったら殺されていない? どうだろう? でもここにいる物言わぬ死体の内の一つかもしれない。どうすれば、どうすれば。焦りと恐怖が心から湧き出、指先をわなわなと震えさせるのは容易だった。やがて全身が震えはずみで私は尻もちをつく。後ろは壁以外死体も何ないが、それでも私も血の津波に巻き込まれていくかも知れないという狂想に囚われた。息が荒くなる。空気はやはり鉄臭い。喉にやすりでもかけられているようで、段々痛々しくもなった。今、ここには誰も私を守る人はいない。賛美する人も、適当にお世辞を言うだけの人もいない。

 私の本当の姿を知っている人も――いない。

 そう思った時に足音は聞こえた。体は再び竦んだ。私は声も出せず、振り返ることも出来ない。ただ苦しい状態で息も出来ない。胸も詰まっている。そういえば何だか吐き気もする。
 だが次の瞬間私は安心を得た。
 あいつの声がしたのだ。
 あいつは、生き残っていたのだ! 私は目を潤ませて顔を向けた。
 その期待は、いつか私が夢見る乙女だった頃に抱いた、恋の望みのように膨らんだ。

 そして同じように、破裂した。


「あんたが悪いんだよ。
 俺の想いにちっとも応えてくれやしないんだから」


 あいつは――虫一匹も殺さないような顔をして――返り血に染まっていた。
 私の時間が、止まる。
「あんたは俺に無能と言ったね。何度も何度も。
 だけど、俺には素敵な能力があったんだよ」
 喋り方も雰囲気も普段の彼とは全く違うのに、声は私のよく知るそれだ。
 そしてぽいと私に投げたのは、血で染まったあのブーケだった。
 その染まり方すらどこか梅雨時の濡れそぼる紫陽花のようで鮮やかに美しい。
「あんたの言う、有意義で有能で友好的な人達を、最大限に苦しめて痛めつけて、殺す能力さ。
 それも一人でこんなに大勢を。
 見てごらんよ、この綺麗な血の海。無能でポンコツで欠陥だらけで愚鈍な俺は、それはそれは素晴らしい、類稀なる殺人鬼だったんだ」
 だからこうして人が虐殺されていることは何もおかしいことでない、安心しなさいと笑う。まるでいつもの日常が続いているような彼の微笑みは、ひどく生き生きしている。
「信じられないって顔してる。すごく面白いなあ。
 まるで俺が、あんたの本当の顔を知った時のようだよ」
 俺の本当の顔は、こういう顔だったんだよ、と指をさす。その仕草も数時間前、今まで過ごしてきた日々と変わらない。
「ほら、大切な人達に挨拶したらどうだい。
 いつもみたいに清楚に笑って。俺には向けない聖女の笑みで、清らかな眼差しでさあ!」
 私は立ち上がることが出来ず、無論顔の筋肉を動かすこともついぞ出来ない。それよりも私の意識は大切な人、という言葉に向けられた。

 ああそうだ、私の大切な人達は、もうこの場で沢山死骸になっている。その中には、うわべだけの付き合い、偽りの友情とは言え、それなりに仲のいい人達だっていたのだ。
 私は私で、本当の私を出さずとも、偽物の仮面だけで作り上げてきた社会があるのだ。それなりに居心地だってよかった。そっちを本当の自分にしても良かったのだ。普通は、そうあるべきなのだ。

 だけど――私は笑顔の殺人鬼に視線を飛ばした。
 私のその顔は、野に揺れる名もなき草花のようだったろう。子を亡くし叫び彷徨う親猫のようだったろう。殺さないでと懇願する、健気に生きる虫のようだったろう。


 私の大切な人はたった一人しかいない。
 私の本当の姿を知る人しかいない。
 本当の自分に還れる人しかいない。
 罵倒の言葉は出てこない。弾劾する叫びも出てこない。
 何もかも、彼の名前の前に全て消え失せる――。



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