久人さん? と彼女の声がした。
 おかしい。彼女は今歌っているところなのに。今日だけの疲れだけではない、このところいろいろ仕事が重なって疲れが溜まっていたからついに幻聴が聞こえるようになってしまったのか、と冷や汗を流してしまう。肩をとん、と叩かれたので、再び閉じていた目をぱっと開く。そこには――彼女がいた。偶然ですね、と笑う。小豆色のベレー帽が傾げた首に合わせ動いた。
 確かにこれはまた奇妙な偶然だ。ひたすら彼女のことを考えていたら、彼女がこのダイヤに走る電車の、それも同じ車両に乗ってくるなんて。にこにことした顔を崩さず、あまりにも当たり前に隣に座った。見ると車両内は大分空き始めていた。空間を詰める必要はないものの、そっと彼女は私に寄るように座る。彼女なりの愛の仕草で、そして甘えでもあるだろう。
「お仕事でしたか」
「ちょっと資料を買いにね」
 まさか彼女への愛――人が人を当たり前に愛せることに馬鹿みたく感動していたとは言えない。ひたすら何気ない風を装いながら、それでも浮かび上がる笑みを止めることは出来ないでいた。まあ彼女も笑っているからいいだろう。話してみると彼女も作曲の資料を探していたらしい。同じですねと互いに笑い合った。
 幸せなことだ。同じ電車の同じ車両に乗り込んだ偶然に感謝しよう。
 そう。同じ電車に乗っている。こんなこと、思い出すまでもなく過去に何度もあった。レコーディングからの帰り。デートからの帰り。ライブからの帰り。それでも、ただの偶然一回が何てことないことを特別に変えてくれる。

 出来れば偶然ではなく、確固たる意志を以て同じ電車に乗っていたい。そう感じた。
 乗り換えで別の路線に乗ることなく、ずっとずっと、見えない終着駅まで。
 ――これではまるでプロポーズだな、と一人吹き出してしまった。

「何考えていたんですか?」
 その音が聞かれてしまった。何にも、と白を切るつもりが、じっと彼女は見つめてくる。目的地に近付くにつれて人も少なくなってきた。小声で言えば大丈夫だろう。今思えばとんでもないことを考えていた。普通の顔をして言えるわけがない。何度も咳払いをして、徐々に濃さを増していく頬の赤さを意識しないようにしながら、出来るだけそっくりそのまま伝えた。――この地下鉄はわりあい静かだから、周りに聞こえない程度の小声でも伝わったのが良かった。もう一度言ってくださいと言われれば、全然関係ない駅で逃げるように降りていったかもしれない。
 悲しいことに伝わらなかったのか彼女はこう言った。
「……もう乗ってますよ」
「いや、そうじゃなく……」
 だがそれは、私が彼女を甘く見ていたことからくる誤解だったらしい。
 ふるふると首を振る。小豆色のベレー帽についていたボンボンの飾りが揺れた。

「……乗ってると思ってたのは私だけだったんですかね」

 私を見ていたはずの彼女は言ったきり、誰もいない向かい側のシートを眺めた。頬に赤みが増していく。はにかむ愛しい横顔を見つめていたら、その表情が次第に曇っていくのを感じて急いで手を繋ぐ。
 こんなに急いで手を繋がなくても、彼女はすぐそこにいるのに。雪が優しく溶けていくように、彼女はまた緩やかにはにかみ始めた。
 そして、愛が宿っていた私の手を、愛の行きつく先にいる彼女が握り返す。

「終着駅はどこだろうね」
「……きっと、素敵なところですよ」

 言うまでもないこと。彼女がいるならどこでも素敵な場所だろう。
 彼女にとっても、私がいることで、そうであってほしい。


 そうだね、と頷いて手を握れば、このまま愛が溢れ、うたた寝に誘われて、二人が暖かく溶けてしまえるような気がした。


(了)

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