メトロ




 少しばかりの間私は眠っていたのだが、目蓋の裏には夢も何も映らなかった。
 電車の微かな震動と地下鉄特有の静かさが私を包み、不可視の微睡みのさざ波が、瞳を覆う安らぎの闇に寄せていた。ぼんやりと私は視界に切り込みを入れる。シートに座ったり、つり革につかまる人々の足、様々な靴。座席の赤、床のクリーム色。いつも通りの電車だ。
 映り込んでくるものは、目をうっすら開くまで何も無かったが、聞こえてくる何かがあった。
 彼女の声だった。
 私は無意味に、目を薄開きにしながら左右を確認する。彼女がどこかにいるわけではなかった。何てことはないことだ。イヤホンから私の耳――内耳の柔らかい部分に送り届けられているだけだった。そうだ。そうそう都合のいいことがあるわけではない。
 音楽プレイヤーの液晶を確認する。以前行われたライブ――私もベーシストとして参加したものだ――の音源がどうやらランダムで流れてきたらしい。ちょうどMCの部分が再生されていた。人前に出て歌うのは平気なのに、喋ることとなるとやけに緊張して、いつも上手くいかないとたまに苦悩を漏らすが、どれも人柄の良さが表れたいいMCだと思う。そう。端的に言えば可愛らしかった。
 私はまた目を閉じ、同時にこう思う。

 ――彼女が好きだと。

 それは、例えばメモにそっと添えるメッセージ程度のものであるはずだった。それくらいの気軽な気持ちで呟いたものだった。彼女のことをあまりに日常的に想い過ぎているからか、そんな愛の告白は、もはや私にとっては何てことのない言葉の一群に組み込まれていたのだ。おはようと同列。こんにちはと同じ。おやすみなさいと一緒。それくらい自然に、彼女への愛は生きていた。
 なのに私は――もう一度眠るつもりだったのに再び目を開いていた。もし胸中で呟いた言葉が、まるで昔読んだ漫画のように個体となって掌に載せられているならば、きっと私はそれをまじまじと見つめていたに違いないだろう。そんなことは起きないので、代わりにぱちぱちと目を瞬かせた。
 瞬かせると前後の記憶が甦ってきた。俺は何しに街へ出てきたんだっけ。そうだ。次回の原稿の執筆でどうしても参照したい本があって、せっかくだから買いに行こうと思っていたのだ。でもなかなか見つからなくて、ちょっと遠出したんだ。十一月ももうすぐ終わる頃だと言うのに、やたらと暖かくて――多分こういう日を小春日和と言うのだろう――だのに雨模様で、その上平日なのにも関わらずやたらと人がいた。嫌なことは重なるものだ。寒いと思って厚着をしていたら雨降りで、人ごみで、予想外の遠出で、不案内なところだから変に歩きまわってしまって、やっと見つけたと思ったらあれもこれも買ってしまって荷物が重たくなって、それでまた歩いて――とにかくくたくただったんだ。地下鉄で座れてラッキー、疲れたし荷物もあるし少し寝ようと思った途端すうっと意識が消えてしまったのだ。確か。
 そして、彼女の声で起きたのだ。
 そうか、と前後の出来事に対し、無意味にそう胸中で呟く。
 彼女が好きだ。掌の中にその言葉があると仮定して、そっと掌を丸めた。大事に大事に、生み出されたばかりの卵を包むくらい慎重に。そう、その言葉はそこにないのに、卵が本当にあるわけでもないのに、掌は暖かい。不思議な質量を感じる。
 それは積み重ねてきた彼女と私の日々と、その想い達による重さなのかもしれない。
 もともと作曲家として業界に入ってきた彼女だったから、スタジオミュージシャンである私と出逢ったのも、とあるレコーディングスタジオだった。編曲作業を通して何度か話をしている内に、彼女の中に眠るメロディに興味を持った。次第に、彼女その人に興味を持った。――その気持ちが好きに変わるのに、そう時間はかからなかった。けれども、すぐ告白しようとかデートに誘おうなどと考えられなかったのは、いろいろ若かった所為だろう。――今も若いが。
 また何度か会う機会を通している内に、彼女がボーカルとしてあるバンドに起用されることを知った。ソングライターがその曲を買われてシンガーデビューすることは珍しいことではない。何度か話し、時に音を重ねあわせ、休憩室などでさりげなく音楽談義を交わしていたのに、妙にまごまごしていて、まだ決定的なところに踏み出せていなかった私は、彼女のライブをこっそり見に行ったことで決心がついたのだった。彼女に想いを伝えようと。
 彼女の透明感のある、神へ捧げる祈りのような歌声と、そんな彼女を支える芯の通った、けれども優しいメロディが、臆病な私にそっと手を差し伸べてくれた。
 ――ところがそれでも私はまごついていた。子供じゃないのだからスマートに想いを切り出せばいい。だが切り出したところで彼女に既に相手がいたらどうする? そもそも私が好みのタイプとは限らないではないか。あれだけ充実した作曲業を営んでいるのだ、きっともうパートナーがいてもおかしくない。などと、中学生どころか今時小学生でもこんなことでうだうだ悩まないだろうというくらい私は大人げなく、葛藤に振り回されていた。
 これだけ迷っていることからもわかるように、至って不器用な私は彼女にそれとなく訊き出すことも出来なかった。自分でも不甲斐ないが実に滑稽である。それらの狼狽を全て押し隠しベースを弾き、雑誌の原稿を書いた。その裏でどれほどのコーヒーと酒が消費されただろうと思う。
 彼女はただただ遠い世界にいた。
 決して入り込めない鏡の向こう側にいる。その鏡に自分の慌て惑う姿も同時に映し出される。――もし事態が今と真逆の状況だったならば、あまりのいたたまれなさに私はこの地下鉄内で死んでいたかもしれない。――というのは言いすぎだが、それくらいの気概はあっても不思議ではない。

 だが、そう。過去に何があったかはそこまで重要ではない。大切なのは今だろう。
 そう。私と彼女は今、結ばれているのだから。愛しさと幸せが体に満ち満ちていくのを感じ、私は再び掌をぎゅっと握った。

 ますます、愛が溢れていく。
 日数にしても年数にしても、私と彼女の日々はそこまで深くない。もしかしたら想いを伝えていないだけで彼女をずっと愛している人がどこかにいるかもしれない。私のこの愛よりも深いものを持つ人も、あるいは存在しているかもわからない。私の愛なんて相対的に見ればひどくちっぽけかもしれなかった。
 それでも私は静かに驚愕していた。
 ひどく当たり前のことなのかもしれない。けれども意外なことのようにも思えるのだ。

 たった一人の人にずっとずっと、同じ愛を注げるということが、不思議だった。

 オスはメスに、父は母に、夫は妻に、王子様はお姫様に――そうやって、決まった人をずっと愛せる――あるいは求愛する、子を成すというのは、おそらくはごくありふれた自然の摂理だろう。けれど今の、眠りから覚め、彼女の愛を自然と口にした起きぬけの私には、ただただ、ものすごいことのように思えた。
 だから一人、こうして呆然としている。
 想い合っているとはいえ、突き詰めれば所詮は人は他人同士だ。血の繋がりがあるわけでもない。生死の境を共に彷徨って命からがら帰還した、とか、そんなハリウッド映画のようなドラマチックな出来事も無い。

 なのにこんなにも人は人を愛せることが出来るのか。
 意地の悪い疑問ではない。ただただなるほど、と思っているだけだ。

 今この掌の中にある。耳の中に吹き込まれていく。
 MCはそろそろ一旦終わりを迎える。演奏の準備が始まる。
 私も加わる演奏。それを彼女が歌う。
 音楽が、声が、彼女の世界を奏でていく。私の体と掌にある愛は共鳴し、心を震わせていく。
 こんなにも人は人を愛することが出来るのだ。
 それはもしかしたら奇跡なのかもしれない。
 世界の中のありとあらゆる奇跡の中でも、とびきり愛しい奇跡。


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