嘯きの通り七月中にさらっと宿題を終わらせた。その間、絵本の朗読も始めた。おばさんが快諾してくれてよかった。何の反応も無い昏睡患者だからと言って、呼び掛けたり話し掛けたりすることを止めるのはかえっていけないことなのだ。植物と同じだ。静ちゃんが植物人間と言うわけじゃないけれど。
 あの雨の日よりずっと上手くなっているはずの朗読を、僕自身も楽しんでいた。願わくば、深く眠り続ける静ちゃんが見る夢に、少しでも読んでいる本の内容が現れれば良い。目覚めたら、少しは僕みたく小説が好きになっているといいな、とも思う。

 そんな中、初めて静ちゃんの病室に行かない日も作ってみた。何となくそわそわして、これがいいのか悪いのかと思ったけれど、僕は声を聞いた気がした。
 あんたもたまには休みなさいよ。私は別に、鬱陶しいわけじゃないけど、一人の時間だって大事じゃん?
 そう言う静ちゃんの声。多分、僕が都合よく作り上げた幻の声だ。でも尤もなことだったから、甘えることにした。
 何かを諦めたわけじゃない。どこかで折り合いをつけることが必要なのだ。


 そんなことを考えながら僕は大学病院に赴いた。夏らしい、きらきらした爽やかな木漏れ日の落ちるところを通って、通い慣れた道を通って。学生は夏休みでも世間は平日。それでも病院はいつも人がいっぱいだ。特にお年寄りや主婦らしい女性達が多い。僕くらいの若い人は、まだこの手の病院に特に用事はない。
「おお、瀧川じゃん」
 だから渡辺君に声を掛けられた時は驚いたものだ。渡辺君? と目を丸くして思わず大きな声で呼びかけてしまったけど、ここは病院。通い慣れている僕の方が静かに、と彼に注意されてしまった。
 彼は、僕が一応籍だけ入れている演劇部の同級生にして、僕のクラスメイトだ。学校の部活動だけじゃなく、市内の中学生や高校生が集まる演劇サークルにも所属している。
 身内がここに入院していて、その見舞いの帰りらしい。僕の事情はそれとなくクラスの人達はわかっているので、そうか、ここに入院してるんだなと何度か頷いていた。
 そうだ、と渡辺君は鞄から折り畳んだチラシを取り出した。
「幽霊部員を黙って認めてやる代わり。貰え貰え」
「何? サークルの、公演チラシ?」
 広げて折り目を伸ばした。『新説・八犬伝』と銘打ってある。いや、と渡辺君は説明する。彼の好きな市民劇団の秋公演らしく、今日から公演チラシが配布されているとのことで、何枚か取ってきたのだと言う。彼の知り合いがキャストにいて、楽しみにしているのだと。
「八犬伝かあ」
「瀧川、ファンタジーとか好きだろうと思ってさ」
 八犬伝。昔、児童書で読んだことがある。十巻もある長い話だった。文字が大きいから、小学生低学年向けだったと思う。同じ珠と同じ痣を持つ若者達が安房の里見と言う国に集まって戦う――そんな話だったような気がする。読んだのは大分前の話だし、大雑把過ぎる概要だ。演劇になるんだ、ふうん、と何度か頷いた。

 珠を持った若者達。何か大いなるものに、抗えない宿命を与えられている。
 若者達……犬士達は、約束されたヒーローだなあ。

「まだ当分先の話だけど、良かったら見に来いよ」
 静ちゃんは八犬伝を知っているだろうか。犬士達を見て、羨ましいと思うだろうか。
 渡辺君の言葉を聞くと同時にそんなことを考えていた。
「そうだなあ、うーん」
 その答えが気になったのもあるけれど、それ以上に。
 僕はややあって軽く頭を振った。
「ごめん。行けない」
 そっか、と渡辺君は意外そうな顔をする。
「でも何で即答」
 そりゃあ疑問に思うだろう。僕自身こうきっぱり断ることも意外だし、普通に考えてもまだ一月くらいあるのだから、予定くらい何とか出来る。
 でも、そんなに早く目覚めるかどうかわからない。
「行くなら、静ちゃんと行きたいから」
 僕一人で何かを楽しむことに罪悪感を抱くわけじゃない。
「ここに入院してる幼馴染と、行きたいから」

 彼女と一緒に見たいと思う。
 芝居も映画も。この世に沢山ある、全ての美しいものを。

 そっか、と渡辺君はふわりと微笑した。それ以上食い下がらず、余計なことも何も言わず、それじゃあなと手を上げた。また学校で、と僕も手を上げた。





 八犬伝の本、まだ図書館にあるよねと病室に向かいながらつらつら考える。子供向けのやさしいものだから、朗読してもいいんじゃないかと思ったのだ。勿論、静ちゃんに読んであげる。僕自身も何だか興味が出てきたから、他にいろいろ読んでみるのもいいかもしれない。その内八犬伝が好きになるかもしれない。となると、何だか芝居に行かないと言ってしまったのが勿体なく思えてくる。こんなんじゃ、さっき断ったばっかりじゃないと静ちゃんに怒られてしまうや。
 そして病室の扉を開く。まだ誰もいない。
「ただいま、静ちゃん」
 勝手に僕の家のように言うから、ずうずうしい奴ねえときっと思っている。
「なんて、ごめんごめん。ここにいるの長いからさ」
 その想像に一人で返す。でも空しいと思わない。何にしろきっと静ちゃんには届いている。取りだした団扇で、今日も暑いね、と自分と彼女に風を送った。
 窓から入る風がこの団扇の風よりもっと涼しくなったら。その頃にもし目覚めたら、そのお芝居に行こう。
「ねえ静ちゃん、こんな話知ってるかい」
 そうなったらいいと僕は願う。だから今日の絵本を読む前に、僕は語りかける。うろ覚えで、語りかける。

 僕らとは違う、運命をちゃんと持ったヒーローのお話。

「むかしむかし。確か、今の千葉県、房総半島にある小さな国のお話なんだけど……」

 でも僕は、ヒーローになれなくていい。そんなのは、お断りだ。
 今ここで彼女に語りかける、僕でいる。
 僕でいたい。

「その八つの珠と痣を持った、若者達の長い長い、お話」

 静ちゃんのありのままを、見続けよう。
 強くても弱くても、たとえ目覚めなくても、眠り続けていても。
 僕が僕のままで、君が君でいる。
 そんなありのままを、傍でずっと見ていよう。

「いろんな所で活躍する英雄の、ヒーロー達のお話」
 予告編でしかないものを語り終え、その裏で心に誓いを静かに刻んで、僕は微笑む。それで終わりなの、とツッコミが聞こえてきそうだった。

「終わりじゃない。後でちゃんと話してあげるから」
 柔らかな風が吹いた。その風の中で静ちゃんが笑ったように思えた。
 それなりに楽しみにしてる、と照れたように。そんな気がした。




(了)
八犬士にはさせないで に続く

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