走りながら考える。ああ、なんて自分勝手な考え方だろう、と。自分本位な考え方だ。それを言ったところで静ちゃんが救われるわけでもない。困惑するだけだ。無力感を余計に抱かせることになるかもしれない。だから? だから何よ? と言い返す彼女の顔が浮かんでくる。
 でも僕は何度も思う。何度だって彼女に言う。何度だって手を伸ばす。静ちゃんが生きている世界ならどんなところだってきっと生きていける。それが自分勝手なのは承知だ。

 だって静ちゃんが僕にとってのヒーローで、女の子だもの。
 こんなに強い想いを引っ込めることなんて、僕には出来ない。

 病室に飛び込んだ。誰もいない。緩くカーテンが揺れている。ちょうどおばさんが外に出たところに来てしまったのだろうか。不吉な喩えだけど、僅かなモーター音が聞こえてくるだけであくまでも静謐なその場は、さながら棺を安置されているようだった。白雪姫の眠る硝子の棺。ううん、ここには静ちゃんしかいない。静ちゃんは死んでいない。静ちゃんは、そんなお姫様にならなくてもいい。
 これだけ静かな場所なんだ。
「ねえ静ちゃん」
 僕の呟きは届くかも知れない。
 僕は座りもせずに、立ったまま言葉を彼女に降らせた。
「君の言う通り、この世界に、ヒーローはいないよ」
 走りながら考えていたこと。うまく言葉に出来るかどうか。
「だから、僕達は皆、特別じゃない。特別な存在になれない。
 物語の登場人物のような、かっこいい存在、華々しい存在に、なれない」

 奇跡も魔法も、超能力もない。
 僕らはどこまでもいつまでも、あくまでただの一般人だ。

「そして、そうなる運命なんか多分どこにもないんだ。起こるべきことしか起こらない。
 後から思い返してあれは運命だったんだって、そんな風に理屈をつけることしか出来ない。全部は偶然なんだ。最初から仕組まれてることはないんだ」
 残酷なようだけど、静ちゃんの事故だってそういうものの一つだ。震災だって、きっとそう。起こってしまっただけだ。全てはたまたま。残酷な偶然だ。
 断定してしまって、頭の片隅がくらくらした。遠くなっていく言葉を、それでも必死に手繰り寄せる。

 だって、それだけじゃないんだから。

「だから、この世界はきっと呪われているんだ。間違っているし、腐敗した場所だ。正直に言えば、一秒たりともこんなところにいたくない」
 すとん、と僕はいつも座る椅子にやっと腰を下ろした。
 でもそこで終わりじゃない。
 決めつけて、終わりじゃない。
 視線の先に、眠る彼女がいる。
「でも、その一方で、それと同じくらい確かに、呪われてなんかいないと思う。
 ていうか、それを決めるのは僕ら自身だ。僕自身としては確かに、呪われてもいると思うし、悲惨だなとか、過酷だな、辛いな、とか思う」
 でも、と僕は頭を振った。
「一方で、すごく綺麗な、良い世界だとも思う。嫌なことがある一方で、空が綺麗だなって思うし、風が気持ちいいなとか日差しが眩しいなとか、そういうことを思ったりもする」
 くすり、と微かに僕は笑った。
「あのさ静ちゃん。覚えてないかもだけど、三月の公園でのこととか、他にももっといっぱいある君との想い出の中、風景でも気持ちでも、綺麗なものは沢山あったんだよ。
 僕らが勝手に落ち込んでただけで、良いものはいっぱいあったんだ」
 いっぱいあるんだ。それら小さなものが集まって希望になる。僕達はようやくその価値を再認識し始めている。あんなに息苦しかったのに、音楽を始めとする娯楽がやっと求められてきたじゃないか。

 あるんだよ、静ちゃん。僕はどこか興奮して続けた。

「普通のことでもそうだよ。面白いテレビや漫画を見て笑ったり、本を読んだり良い話を聞いて泣いたりする」
 希望も絶望も内包している世界なんだ。美しくもあり醜くもある世界だ。どう捉えるかは人それぞれで、その時その時でどちらにでも変わる。観測者の気持ちが変われば、どうとでもなる。

 ただ僕が僕であることだけが変わらない。不幸にも、幸いにも。
 そしてそのことと同じくらい大事なことがある。
 僕の視線の先にある。僕の全ての理由が息づいている。

「静ちゃん」
 何も答えなくてもいいよ。

「君が生きているから。君が、ここにいるから」
 眠っていても起きていてもいいんだ。

「静ちゃんが、静ちゃんであるから」
 君がそこにいてくれれば、いいんだよ。

「だから僕は、この世界に生きていたいって思うんだ。臆病で自分勝手で弱虫だけど、でも、そんな自分でも好きになれるような気がするんだ。
 君がいてくれるだけで、ただそれだけで」
 言葉はきっと体に沁み込む。心にきっと届いていく。
「ねえ静ちゃん」

 僕のヒーロー。勇敢なるたった一人の女の子。
 強くて弱い、僕の好きな人。

「君に言ったことはないけど、君は僕のヒーローなんだよ。そしてたった一人の女の子なんだ。
 僕に言われるだけじゃ、これだけじゃ全然満足出来ないかもしれないけど、静ちゃんは何にも、特別な人になる必要なんてないんだよ。
 ただ君が君でいてくれることが一番大事なんだ」
 そしてそれは、僕だってそうじゃないか。
「僕は、僕にしかなれない」

 僕らは最初から僕ら以外にはなれない。
 僕らは誰にも語られない。物語の人物でもなければ救世主でもない。

 でも、僕は僕だ。それ以外の何者でもないんだ。
 静ちゃんの傍にいる人。
 それは僕だ。

「泣き虫弱虫、臆病で地味で後ろ向きでそのくせ自分勝手で考え過ぎなところがあるけど」
 でも。僕はそっと手を、指を伸ばす。
 ほんの少しだけ、彼女の頬に触れた。思っていた以上に暖かい。熱いくらいだ。
「僕はずっと、君の傍にいる」

 この熱さに誓おう。君が生きている証に誓おう。

「今度こそ、君を見捨てたりしない」
 夏の幻の静ちゃん。今もどこかで僕を見ている? その無言の問いかけの瞳で、僕をまだ見ている?
 これが僕の答えだよ。
 僕は君を独りにしない。どれだけ悩んでも、苦しくても、辛いことがあっても、君のところに絶対に戻ってくる。もう二度と間違えたりしない。
 そして僕は待つ。待ち続ける。確かな希望を持って、弱さに屈したりしない。

 君が目覚めるその日を、夢見るんじゃない。
 君が目覚めるその日を、はっきりと見るんだ。
 この両目で確かに。
 この僕自身で、確かに。

   4  
novel top

inserted by FC2 system