僕は王子様じゃない。静ちゃんだって呪いをかけられたお姫様じゃない。
 行き先も決めずふらふら、暑さの塊のような空気を大儀そうに割っては歩いていく。時折吹く風は生ぬるい。時計を見れば午後五時を過ぎていた。夏の日は高く、黄昏時には早い。太陽がいやに眩しかった。それでも暮れつつある空を眺めながら、僕は歩く。病院から少し歩いたところには川が流れていて、傾いてきた太陽光の一つ一つを水面がきらきらと反射させていた。
 少しは涼しいかと思って河川敷に降りてみたけれどそんなことはない。生い茂る草の匂いが余計に鬱陶しいだけだった。静ちゃんだったらむあっとして暑いし、蚊に刺された、痒い、そんな風に文句を言うところだろう。
 ちょうどいい石造りの長椅子があったので、そこに腰を下ろす。考えることはやっぱり静ちゃんのことばかりだ。今頃はおばさんが病室に来ている頃だろう。もしくは下の姉が来ている頃か。でも静ちゃんは相変わらず眠り続けたままだ。今がどれだけ暑いか知らない。僕がこんな風に、黄昏時にまさしく黄昏ていることも、静ちゃんのことばかり考えて未来も何も見えなくなっていることを。見通しが全然つかなくなっていることも。

 僕は、自分勝手に行き詰っている。
 何だか、何もかもを静ちゃんの所為にしているようなものじゃないか、こんなの。

 弱い奴だ。性質の悪いことに自分勝手で、どこまでも自分を追い詰める。ひたすらに後ろ向き。しかも臆病者。それに泣き虫だ。歳を重ねるごとに僕は惨めになっていく。静ちゃんが手に負えないくらいの子供に退化していっている。大人になんかなれそうもない。そんな僕が静ちゃんを助けられるわけがない。当たり前だけど。ヒーロー? 王子様? ありえない。悲しいまでに僕は僕でしかないのだ。

 ちょうど、この世界がどこまでも残酷であるように。

 深く深く俯きながらそれだけのことを思った。こうしていると余計暑くなるだけだと思って、思いきって振り上げるようにして顔を上げた。
 世界は、当たり前だけど変わらずにそこにあった。こう言う時、感動もののファンタジー小説だと笑顔の静ちゃんの幻が目の前にいたりするのに、現実は幻想の存在をいついかなる時も許さない。あの日見た幼い静ちゃんの幻は、僕の疲れで目にした何かだろう。
 さっき思ったばっかりじゃないか。僕が僕でしかないのと同じように、世界はただ世界を広げている。あるがままの世界を。優しいことなんか何一つもない、時間を進めるごとに行き詰っていく世界を。
 でも僕は、何度か瞬きをしてしまう。瞬きでその世界を塗り替えようとしたわけじゃない。
 随分長いことここにいたようで、陽はさっきよりも大きく傾いていた。空は白っぽい青から段々絵の具を垂らして滲ませたような茜色に染まっていく。西に向かう下流の方に目を向ければ、輝いているのか燃えているのか、どちらでもある太陽がまんまるの形をこれでもかと表しながら浮かんでいた。拍手をするように水面が煌めきを弾き返している。多分橋の上から見たらもっと綺麗だろう。
 水面だけじゃない。太陽も空もそうだ。あ、太陽丸い。そう気付いた人が思わず足を止めてしまうくらいには。ああ空、なんか綺麗なグラデーション。そう思った人が携帯電話のカメラで一枚撮ってしまうくらいには。

 不意に三月の公園で見た景色が、脳裏に去来する。
 永遠に続くような黄金色の空。茜と黄金の西日の中で静ちゃんが苦笑を浮かべる。

 あの時にした話とは関係なかったけど、あの日の空だって綺麗だった。思い返せば黄金の光満ちる中では、自分達が抱える嫌なことが全部忘れられそうだった。日本はそれどころじゃなかったのに、むしろその所為で強烈に神々しい美しさが僕の中に残っていて、鮮烈にそれを復元していた。自然はいつだってあるがままでいる。自然の脅威を見せつけられた後だって言うのに、今だってその恐怖から抜け切れたとは言えないのに、それでも僕に甦る空も光も、全部が綺麗だった。全部が溜息をつくくらいに素晴らしいものだった。
 知ってる。世界は残酷だ。不幸は突然にやってきて突然に奪っていく。僕らの事情なんてお構いなしで全力で襲いかかってくる。隙を見せたら最後だ。この世の中は綺麗なものが綺麗なままで生きていくには過酷過ぎる。絶望して生きていくくらいがちょうどいいんだ。
 でも、そんな世界が僕と静ちゃんの生まれた場所だ。呪われている世界だってわかりきっているのに、それでもふとした美しさや暖かさに心を奪われるようなところだ。自然のものでも、人間の心から生まれたものでも。
 そうだ。僕が好きな絵本にしろ小説にしろ、世間を夢中にさせる映画やドラマ、アニメ、そういう物語は、この世界で生まれている。皆ここから生み出されていく。
 苦しい中を乗り越えて、綺麗なものを生んでいく。
 それは世界が苦しいことばかりじゃないからだろう。僕にとっての静ちゃん、その想い出達のように、素敵なことがあることを皆に知って欲しいからだろう。
 美しいものは、すぐ傍にあるんだ。
 今ほどちゃんとわかっていなかったあの時だって、僕は静ちゃんに言えば良かったんだ。それが彼女にどれだけ否定されても構わない。話と関係ないと白けられてもいい。ただひたすらに、空が綺麗だねって言えば良かったんだ。
 その日だけじゃない。幼いあの時、手を繋いでお互い無言で耐えてた時に広がっていた空や景色にも、僕は綺麗だねって、素敵だねって言えば良かったんだ。

 ねえ静ちゃん。空、綺麗だよ。川が夕日に光って綺麗だよ。風が気持ちいいよ。
 そうやって、言えば良かったんだ。

 全部、静ちゃんがいてくれているからだ。静ちゃんがいるから、僕にとっては全てが素晴らしいものだったんだって。静ちゃんがいてくれるならどこだって僕にとっては最高の場所になるんだ。

 今だってそれは、変わらないんじゃないか。
 だって静ちゃんは、ちゃんと生きてる。
 生きているんだ。

 僕はすっくと石の長椅子から立ち上がった。風は、少しずつ涼しくなるだろう。まだ暑さの塊のようだったけれど、変わらずに吹いてくるそれを切るように走っていった。目指す先は、一つしかなかった。

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