島に上陸し、拠点を設営し終わると、朱史氏は調査の方に、小夜子さんは島の探検に出掛けた。無人島だから頼れる人は自分達以外にいないのだからあまり遠くへはいかないようにと忠告したけれど、小夜子さんは大丈夫大丈夫、と満面の笑みで、まるで子供がはしゃぐようにずんずん浜辺を歩いて行ったという。
 小夜子さんは、古くは華族の流れを組むと言う、さる資産家、滝沢家の娘の一人だった。滝沢家は前時代めいた考えがまだまだ頑として存在していた家であり、小夜子さんは本来なら大学になど行かせず、然るべき花嫁修業をしてから、資産家や実業家や政治家のもとに嫁がせる、そう言ういかにもお嬢様らしい人生設計が用意されていた。
 けれども、小夜子さんはそんな親からの支配にことごとく掌を返す活発なお嬢様だったようで、大学に進学し、助教授の朱史氏に一目惚れし、熱烈なアタックで交際まで漕ぎ着けたという。小夜子と言う楚々とした名前ではあるが、真夏の太陽のように元気な人であり、それは歳を重ねた今も変わらない。尤も、今はそれなりに落ち着いた人ではあるのだけど。ともかく、小夜子さんのその強引さと明るさが朱史氏のハートを射止めたのである。
 朱史氏と小夜子さんのことについて、もう少し筆を割いておこう。
 大学の助教授もそれなりに社会的地位のある職業ではある。けれども、助教授になりたての頃であり、研究実績も乏しく、ごく平凡な一市民の出である朱史氏にとって、小夜子さんとの交際も、その先にある――当然、小夜子さんの視界にもばっちり入っているであろう結婚も、躊躇いが先行するものであった。
 勿論、小夜子さんを愛していないわけではない。それだけはない。けれど、女性の一生を貰い受けるも同然のことに、全く臆しないと言うのも、それはそれで問題があるだろう。ましてや小夜子さんは名のあるお嬢様なのである。今は交際を隠しているが、仮に認められたとしても、いつ滝沢家が彼女を奪還しにくるともわからない。
 それより何より、朱史氏の一番の懸念としてあるのは、自分が彼女に相応しいか、と言うことだった。自分で道を切り開くような小夜子さんのお嬢様らしからぬ勇敢な背中を見ながら、逞しいものだと朱史氏は微笑する裏で、自分に小さく溜息をついた。
 小夜子さんは、自分がいなくても生きていけるだろう。そう思っていたらしい。この恋はほんの気まぐれに過ぎない。お嬢様なのだから世間知らずなだけで、一瞬の思い込みを恋だと勘違いしただけで、それでここまで来ているだけなんだ。そうも思っていたと言う。彼女にもっと相応しい人は沢山いる。こんなまだまだぽっと出の学者なんて、何も持たない無力な男と同じだ。ただ彼女の傍にいることしか出来ない。彼女を想うことしか出来ない。彼女に何も与えられない。彼女を幸せにすることは出来ない。
 そうはわかっているのだけど、朱史氏は小夜子さんと離れたくないと思っていた。恋仲なのだからそれは当然なのだけど――何か一つ、どうしても失えないもの、たった一つ、守りたいものを選べと言われたなら、それは頭脳でもお金でもなく、間違いなく、小夜子さんへの想いだけだったと言う。
 恋心。あるいは愛。誰かが誰かを想うこころ。それがなかったらなかったで、小夜子さんも、朱史氏の方だって生きていける。でもそれはあくまで理論上の話だ。人間はパンだけで生きるのではない。本当に失ったら、生きていけないだろう。
 在って欲しい。失いたくない。彼女が存在していて欲しい。彼女を想い続けていたい。
 話してくれた時、これはもしかしたら信仰心に近いのかもしれないねと教授は微笑んでいた。神や教えへの信仰がなくても人は生きていけるけれど、その存在や気持ちは誰かにとって――いや、全ての人にとって、本当は必要なものだからね、と。
 実際小夜子さんへの気持ちは信仰のように尊いものだったらしい。どうしてかはよくわからないけど、彼女が私を応援してくれる。彼女のその気持ちを、想いを信じよう、そして応えてみせよう、そう思って仕事をすると、何だか力が湧いてくる。小さな神様のようなものなのかも知れないねと教授は微笑していた。勿論、今でもそれは変わっていないらしい。羨ましいくらいに、おしどり夫婦である。




 島はとても気持ち良く晴れていて、湿気もあまりなくからっとしていて、風も心地良かったらしい。白い光は眩しく、また無人島である所為か浜辺は開放感もあり、少しの間プライベートビーチだと言ってもよかったそうで、少女が絶望と孤独の果てに死んだと言う、忌まわしい逸話のある島とはとても思えなかったと教授は話していた。
 ところが調査を進めていると、朱史氏は何者かの気配を感じたのだ。動物かと思ったが、人であるような気がしてならなかった。無人島だと聞いていたが、誰かが勝手に移り住んでいるのだろうか。
 首を傾げながら拠点へ戻り、一度小夜子さんと合流、そしてその話をするとあら! と小夜子さんは目を輝かせたと言う。何かの動物かしら? それとも幽霊かしら! と身を乗り出してくる彼女に幽霊なんて、と朱史氏は呆れつつも冷や汗を流した。朱史氏は金の瞳の少女の話を聞いたばかりである。もしかすると――ここには彼女の怨念が残っているのかも知れない。
 密かに息を飲む朱史氏とは対照的に、どちらがその幽霊を見つけられるか競争ね、とまた小夜子さんはまたどこかへ探検に、やはり子供のように駆けていった。幽霊ならまだいいけれど、例えば何か得体の知れない獣か、はたまた小夜子さんを襲うに足る人間の男だったとしたら――朱史氏は気が気でなかった。冷や汗交じりの汗をタオルで拭いて、再び調査へ赴く朱史氏であったが、その時既に、背中に誰かからの視線を感じていた。


 計五度ほど気配を感じた時には、こちらから追いかけてやると朱史氏は決めたと言う。明らかに、自分と接触を試みようとしている何者かがいる。けれども姿ははっきりと見せないのだから嫌らしいものだ。不安と恐れと、そしてもし小夜子さんを脅かそうとしているのなら――一層の不安と、多量の怒りとが胸に渦巻いていた朱史氏はそっと下唇を噛み、気配を追い始めた。
 あちらの方もそれを待っていたらしく、まるで鬼さんこちら、と呼ぶように、時々消え、時々は復活しながら、朱史氏を誘導していく。島の中央部に位置する山――かつて金の採れたところである――や深い森のそのまた奥地に誘われるのかと思ったが、どうもそうではない。確かに島の内部に入っていくのであるが、緑が深くなり暗いどころか、進む度どんどん明るくなっていく。どうやら岬の方に導かれているらしい。
 そして辿りついたのは、海が見渡せる朽ち果てた祠のような、何かの遺跡のようにも見える場所だった。専門家が見ればそれなりに価値のあるものだろうと、その方面には明るくない朱史氏はどこか呆けた気持ちで思ったらしい。少し息を整えながら、朱史氏は汗を拭こうとタオルを取り出した、その時だった。視界に入ったものに驚き、タオルはぱさりと朽ち果てたその遺跡に落ちた。
 海を背景にして、少女が立っていた。
 黒い髪。白い肌。そして、輝き煌く、金の瞳。
 息を飲む余裕もない朱史氏に、少女は怪しい微笑を一つ贈った。

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