泉未良が理事長の姪であることは、お昼休みに漏れ聞こえてくるガールズトークから知った。
 ここの理事長は気さくな人で、明鏡は勿論、御鏡の全てを牛耳ると言っても過言ではない程の権力者――何でも鏡の生産で財をなした、近代以前からの豪族だとか――であるのに、まるで近所の人のいいおじさんであるかのように人々に慕われている。村唯一の高校であり、彼が経営しているこの明鏡にもよく姿を見せ、時には行事に参加したりもする。その熱心さは、もともとは教育者になりたかったのかもしれないと思わせるに容易かった。生徒達も一般の教師と同じように接していて、広く愛されていた。そんな友好的な理事長と、近寄りがたい美しさを持つ泉未良が血縁関係にあると言うのも面白い話だ。
 さて、その理事長と母は以前仕事で関係を持ったことがあるらしい。理事長からのオーダーでもあったのだろうか、詳しくは知らないけど、御鏡村での住まいが結構あっさり見つかったのは多分理事長のお蔭だ。その縁もあり、時期の珍しい転校生であることも合わせて、私は理事長からよく声を掛けてもらっていた。おおらかで人当たりのいい人だったから、まるでずっと昔から知っている仲の良いおじさんのように私は接してしまう。真に人に慕われる人は皆この理事長のような人なのかもしれない。
 未良の話が出たのも、いつもの挨拶から始まる会話の中、自然な流れの中でだった。多分、同じ時期外れの転校生同士だから、結びつけてくれたのだと思う。
「良かったら、湯浅君も未良の元へ相談を持ちかけてくれんかね」
 その頃泉未良は、近寄りがたい彼女のイメージからはちょっと想像もつかないけど、生徒達の相談を受けるアドバイザーのような仕事をしていた。仕事と言うよりひとり部活だろう。なんでも理事長からの提案で始めたらしい。独りでいることを見るに見かねて、と言うお節介――なんて言ったらダメか。暖かい心遣いだ。そう言えばよく放課後にクラスメイトがいそいそとどこかへ出掛けていくのを見ている。あれは泉未良の元へ相談を持ちかけているんだ。
 わかりました、考えてみます、と一応返事をしておきながら、さてどうしようかとぼんやり思った。初めて彼女を見た時の、厳しくも美しい表情を脳裏に浮かべながら。
 彼女はまるで人気の占い師のようだった。事実その立ち居振る舞いと神秘的な雰囲気は霊媒師とか巫女さんとかシャーマンとか、もっとファンタジックなことを言えば魔法使いのようだったから、自ずと頷ける。泉さんに相談したら告白が成功した、とか、未良さんにアドバイスを貰ったらこじれていた彼との関係がうまくいった、と、聞くともなしに彼女の評判が聞こえてくる。いつのまにか彼女の人気は生徒だけでなく先生の方にまで波及していてさすがに驚いた。子育ての相談とか、恋愛相談とか、親や舅姑の介護についてとか、はたまた、晩ご飯の献立とか。そんなこと、生徒に相談することでもないと思うけど、打ち明けてしまえるだけ、神秘性だけじゃなく信頼出来る何かがあるのだろう。あくまで客観的な立場でものを言える人のようでもある。
 それこそ、この村にごまんとある鏡のように。
 それでも私はまだ彼女に接触出来ずにいた。人気のわりには予約が一杯というわけでもないのに、今一歩足が踏み出せずにいる。
 相談したいことだって、ないわけじゃない。
 かつて作った箱庭を見つめて、心の中で問う。
 私は、安住の地を見つけることが、出来るでしょうか。
 もう、旅なんか、したくないんです。
 私の抱える悩み事。全然思春期の女の子らしくない問題。他の転校ばっかりしている女の子もこんなことを悩んでいるのかな? それとも私だけかな。寝つけない夜はそんなことをじっと考えて必死に微睡みを呼び寄せる。
 でも、あえて誰にも話さないでいた。母にだって真剣に話したことはなかった。答えを誰かに決めつけられたくなかったからだろう。ただ自分に問うだけだ。鏡に映る自分に問うても、答えなんか返してくれやしないのに。
 それどころか。
 ――お前には見つけられないよ。一生お母さんについていくしかないんだよ。
 ――お前はずっと、彷徨い続けるんだよ。
 鏡に映る自分がせせら笑いながら、そう返してくる気さえした。自問自答でさえこんな調子で、ますます私は口を重くすると言うのに、実際に、自分じゃない誰かにそう言われたら、それがなおのこと本当になってしまいそうだった。
 泉未良と出逢わなければ、多分今でも私は、五里霧中どころではない深い霧の中を、ほとんど絶望しながら彷徨い続けていただろう。
 そして、どこにも辿りつけずに、終わっていただろう。

 一月も終わりに近づいたある日、私はひょんなことから泉未良と接触することになった。
 国語の授業で文学史の宿題が出された。好きな時代を選び、その時代に書かれた作品についてでも、活躍した作家のことについてでもいいから、レポートを書いて提出すること。期限はまだあったけれど、どうせならしっかりしたものが書きたいと思って、学校付属の図書館に足を運んだ。
 図書館。普通の高校なら図書室止まりで十分なものを、理事長がわざわざ建てたものだと言う。書庫には泉家が所蔵していた貴重な書も納めてあるらしく、その本を閲覧する為だけに御鏡村を訪れる研究者もいるとかいないとか言う話だけど、さすがにそんな書庫に入るくらいに凝るつもりもない。でも、普段はあんまり行かない、奥の方に入っていったりはする。宿題の為じゃなくて、単に探検したい気分だったのかもしれない。
 奥の方だけあって、あまり人の訪れないそこは静寂に満たされていて、本達がそれぞれ深い眠りに就いている。開架の一角だけど物置としてのスペースみたいで、本棚に並んでいない書物や雑誌もある。そこに放置され始めてから、どれくらい時間が流れたのだろう。溜まった埃も砂時計から零れた砂のようで、思わず神妙な気分になった。
 一つの本棚が、唯一ある窓の光を塞いでいた。冬の夕方の、弱々しい光。その後ろにも書物が並んでいるのだろうと思って、何の気なしに後ろに入り込んだ時だった。
 思わず、息を飲んだ。
 その窓辺に、泉未良がいた。
 こちらに左側の横顔を見せている。彼女は最初の頃よりは少し落ち着いているけど、やっぱりどこか不機嫌な表情を湛えていて、古びた手鏡を覗き込んでいた。そしてその彼女を見つめてやっと気付く。普段の彼女と違うところと――息を飲んだ理由が、美しさだけじゃなかったことに。むしろ、その美しさを大きく損なうものだったことに。
 左頬のガーゼが無い。
 代わりにあるのは、赤黒くて生々しい、亀裂。
 それは多分、火傷の痕。
 普段隠していると言うことは、秘密も同然。私は秘密を目撃している。そう、じっと、じいっと見ているのに、彼女は私に気付かなかった。理由は後でわかるけど、その時は敢えてそうしているのかも知れないと思っていたから、そら恐ろしさを感じてさっさと立ち去ろうと思った。
 けど、往々にしてこう言う時は、何かしら物音を立ててしまうもの。
 焦って踵を返した私はまんまと置かれた雑誌に躓いてしまった。まるで鳥が飛び立ったような派手な音が立つ。ページが開かれた書物は確かに鳥のようでもあった。あちゃあ、と私は本と泉未良を交互に見た。彼女は然程驚いた様子も見せず、一人でいたところを邪魔されたことに憤慨した様子もなく、そして火傷の痕も隠すことなく、黙って私を見ていた。
「湯浅照葉」
 いきなり、名前を呼ばれた。
 佇まいと同じように、凛とした、澄んだ声。まるで磨かれた鏡のよう。
「昨年十月初旬、一年三組に転入。出席番号は四十一番」
 確か、魔物の動きを止めるのには真の名前を呼ぶべし――と言うファンタジーが、あったような気がする。その時の私は、ちょうどそんな感じだった。
「デザイナー湯浅名月の実子。度重なる転入の繰り返しで友人が少ない」
「な」
 クラスや出席番号くらいならまだしも、そんなことまで?
「なんでわかるの」
 まさしく図星を突かれた感じで、私はどこか怒ったように返してしまった。泉未良の方は全く怯まない。
「鏡は」
 余裕のある緩慢な動きで、持っていた鏡をこちらに向ける。
 戸惑う私が、そこに映される。どこか、囚われてしまったみたいに。
「真実を映すから」
 りん、と神事に使う鈴でも鳴らされた気がした。ミステリアスな眼差しを向けられて、私はやっぱり息を飲んだ。
 私は、鏡の中に囚われた。そう。
 多分、泉未良の持つ、不思議な力で。
 私は。
 御鏡村と言う大きな鏡に囚われる為に、やってきてしまったんだ。
 どこにも行けないで、安住の地を見つけられないで。
 そうして。
 終わって、しまうんだ。
「……事前に知ってただけに決まってますでしょ」
 呆れたような泉未良の声が私の勝手すぎる思い込みモノローグをぶち破る。きょとん、として瞬きすることしか出来ない。念の為頬を掻いてみる。かゆい感覚が、ちゃんとしている。
 夢じゃないし、囚われてもいない。
「ちょ、超能力があるのかと、思ってさ。不思議な力、えっと、霊能力、みたいな」
「そんなもの」
 ばっ、と鏡を剣のようにして、私に鏡面を向ける。目を丸くしている私が映っている。
 そんなもの。つまらないもののように言う。吐き捨てるように言う。嫌悪するように言う。
 この世に、不思議なことなんて。
「あるわけございませんでしょう」
 鏡に映ることが、全てでしょう?
 彼女の厳しい視線が、鏡を通してより鋭くなったようだった。私は何も言い返せず、茶化すことも愛想笑いで誤魔化すことも出来ず、ただただ、頷くばかりだった。

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