綺麗なオレンジ色の空だった。カラスが飛んでいく。だいぶ涼しくなってきた。
人が不思議なほどおらず、来る気配もなかったので、志人は眼鏡を外した。隣のかくれ子を見た。
額にかかる黒い髪、子供らしいふくよかな顔に、まっすぐどこかを見つめる黒い瞳。茜が射して、肌が化粧したようになる。小さな口は閉じたままだった。
「なあ」
志人は独り言のつもりで問いかけた。
「お前、何者なんだ」
しばらく間を置いてかくれ子は志人を見た。そのかくれ子の顔が、志人の心を強烈に射抜く。
かくれ子は志人の最後の恋人にそっくりな顔をしているのに、志人は今更ながら気がついた。瞳の色だけじゃなく、鼻や口や眉も似ていた。
「しりたい?」
かくれ子は笑った。かくれ子の声はひどく子供じみたものでなくなっていた。
志人が呆然とした。彼が頷く前に彼女は語りだす。
「おかあさんは」
かくれ子の表情が翳った。
「わたしをうめなかった」
「うめなかった? 流産したのか?」
かくれ子の母は多分、あの女性だろう、と志人は思う。
「……流産したなら、なんでお前は今ここにいるんだ?」
志人は目を丸くして彼女の右手に触れた。
かくれ子の右手は確かに暖かかった。かくれ子は志人の感じる限り確かに存在していた。
「おかあさんはそのあとすぐにしんじゃった」
かくれ子はうつむく。志人はその告白にあの女性の弱さを思い出した。
一週間に一度は熱を出し、外出もままならない日々もあった。彼女が妊娠し、流産した。それは彼女の体に相当の負荷をかけるはずと、志人は息を飲んだ。
「おとうさんのことを、さいごまでしんぱいしてたよ。
だから、五年たったから、じゅうぶん時間がたったから、あいにきたんだ」
「会いに……って、お前は」
幽霊かと訊こうとした。かくれ子はベンチから降りて、にっこり笑った。
「おとうさんはいままでがんばってきたから、あいにきたの」
五年経った、とこの間、光也と話していたのを聞いていたのだろうか。しかしかくれ子からはちっとも、そういう風に驚かそうというようなものは感じ取れなかった。
かくれ子は志人を見つめた。かくれ子の瞳にまっすぐ、はっきりと、志人が映っているのだろうか。
「いっしょうけんめい、がんばってきたから。
おかあさんだけをたいせつなひとにしてがんばってきたから」
五年間のあらゆる光と影が、志人の頭を駆け巡った。仕事はつらいものもあれば楽しいものもあった。沢山笑ったし、泣いたりもした。涙の方が、多かったかもしれない。
女性関係はそんなにちらつかない五年でもあった。愛することを志人は捨てて仕事をしていたからだ。
でもどこかで、志人の涙をそっと拭ってきたのは、志人が最後に愛し、しかし愛し続けていて、そしてとっくに死んでいて、それでも志人の中では生き続けていた女性だったかもしれない。
志人はぼうっとかくれ子の姿を瞳に捉えていた。
「死んでたか」
そして、女性の死を静かに認めた。
「でも、もう五年もたっちゃったから。
おとうさんは、もう、いっしょうけんめいに、はしらなくてもいいんだよって」
走り続けた志人は今、ようやく少しだけ止まっている。時間をかけて、ゆっくり後ろを振り返る。
遥か後ろに、女性が立って、笑っている。
「伝えにきたのか」
かくれ子は笑って頷いた。
「わたしは、おとうさんにあいたかったから」
「そうか」
志人の体から、ゆっくり何かが抜けていく。何かが終わり、何かが始まろうとしている気持ちが同時に生まれる。
志人の瞳に映ったかくれ子の姿が、だんだんぼやけてきた。
不思議に思って志人は目をこするが、かくれ子はぼやけたままだった。
志人の体に冷たい何かが走る。
「おい、かくれ子」
「わたしね、うまれなかったの。だから、まっしろで、まっさらなんだ」
かくれ子の服は、最初に会ったときから変わらない、真っ白なワンピースだった。
「これから、なんどでもうまれることができる」
「ちょっと、待て」
「おとうさん。わたしはこれからなんどでもうまれることができる。
だから、おとうさんがもういちどおとうさんになったときに、また、あおうね」
かくれ子は手をあげる。
「待て、光也が戻ってくるまで」
そして手を振る。かくれ子は、悲しく笑って、手を振る。
「かくれ子!」
志人はベンチを急いで離れた。しかし、かくれ子はすぐに彼の瞳から姿を消した。