ひさかたのひかりのどけき



 彼女に出逢ったのは春だったな、と初めて合点したように私は思い出していた。
 都市部を白く染めた日が例年より多くとも、季節は必ず巡り来る。冬が来たならば次は春。徐々に気温は、まるで何かが目覚めるかのように上昇を続け、九州からは早くも桜の開花ニュースが届いていた。それと共にスギ花粉に目頭鼻先を悩ませる日も近付くわけだが、幸運なことに私達は二人とも花粉症が辛いからと春を嫌悪すると言う程でもなかった。少なくとも私は春先、痒みに苛立ち視界が潤んだこともないし、まだ付き合いは決して長いとは言えないが、彼女のそういう顔を見た記憶もない。秋花粉もないだろう。鼻炎系のアレルギー持ちでもなさそうだ。
 春に行くところと言えば花見だろう。夕食を何にするか電話をかけてきた彼女に、それこそおかず一品の追加を頼むくらいの自然さで、四月の休みに花見に行かないかと誘った。返事は勿論快いものだった。


 私達の出会いの場所はとある社会人サークルだった。文章を書いたり、読んだり、朗読したり――いわば「本」や「文芸」好きが集う、こじんまりとした会。インターネットの地域コミュニティページの募集を見てどんなものだろうかと見に行ったのが始まりだ。何にでも些細な興味こそが運命を動かすのだと私は思う。
 毎週、隔週の集まりではなく毎月一回の集まりで、いわゆる「ゆるい」感じで運営されているのが、何も知らない者でも集った面々の雰囲気から推し測ることが出来ただろう。そしてそういう集まりは大体において自然消滅する。それこそ路上に積もった雪が、段々と暖かくなる気候に溶けざるを得ないように、そのサークルは一年間しか続かなかった。寿命自体は短かったが、そんなに悪いものではなかった。そしてそう感じていたのは私だけでなく彼女もそうだったらしい。
 だから私達は、もう誰も集まらないとわかっているのに――サークルの集合場所にして主な活動場所、とある市民会館の入り口に足を運んでいたのだ。それこそ、サークルで読み、書き、愛した物語のように、誰かに逢えるかもと言う淡い幻想めいた期待を寄せて。そしてそれは、奇しくも現実になったのである。
 そしてそれが、「出会い」ではなく「出逢い」と――そう表記される対面ならば、その時こそが彼女との初めての出逢いだった。会館に植えられている桜が、少し強く、それでも春の息吹を思わせる暖かな夜風にはらはらと舞っている、あくまでもごく穏やかな一夜の思い出。けれども決して、私の人生からは外されることを許されない、輝く一等星の思い出。
「もしかして、あなたもですか?」
 ほとんど同時にその場に着いたことも、運命なのだろうか。お互い仕事帰りらしい。私はトレンチコートの下にスーツ、彼女は仕事着らしい決して華美ではなく、春らしい装いの服装。
「どうやらそのようで。奇遇ですね」
 そう言うより他なかった。笑い合うのも同じタイミング。考えてみれば会話の流れとしてよくあることだったのに、私はやはり何かを感じずにはいられなかった。


 そんな風にして出逢った私と彼女であるが、お互いの名前さえうろ覚えの状態だったのである意味失笑ものと言えるだろう。所詮その程度の繋がりしかなかったのであるし、彼女は何回か欠席し、私もまたそうだったのでまあ止むをえまい。どちらにしろもう済んでしまったことだ。その後は軽く食事をし、酒の肴に好きな小説や作家だけに留まらず様々な話をし、連絡先を交換し合って別れた。
 そしてその後何回かの逢瀬を重ね、世間一般の恋人同士となった。出逢いの日と同じように、実に穏やかな交際の始まりであり、事実穏やかな二人であっただろう。そして現在に至る。交際期間は――まだ一年も経っていないか。だがしかし、既に熟年カップルであるかのように私達は安定した繋がりを保っている。勿論、その安寧にやすやすと胡坐をかいていられる場合でも無いのだろう。常に努力し向上心を持ち続けていたい。それが嘘偽りない私の想いだ。何より彼女と共にいられることが、私を癒す唯一だからこそ。
 彼女は、おそらくは唯一の、気のおけない話し相手であろう。

 そう。私はきっと、ずっとずっと、話し相手が欲しかったのだ。

 別に彼女でなくても、会社や仕事、同級生、家族、探せば、そして作りだせば話し相手など百も出来るだろう。だが私は会社もかつての学校も家族も選べなかった。嫌いなのだ。仕事関係は特に、そこに金、社会――もっと通俗的に言えば、衣食住に直結する生活臭がするものを生み出す環境、あくまでビジネスという、利益と損失だけが主眼となっている環境に作るのは、私個人の価値観で言うならば、好ましくない。相手に弱みを見せないという立派な戦略があったわけでない。ただ、話したくないのだ。勿論そんな立場をとることで多少の不利益を被ることになっても、別に構わなかった。私にとっては仕事など生活の手段でしかないのだから。それが誰かに間違っていると言われても気にすまい。彼女に言われたら――少しは考えるだろうが。
 サークルに参加してみる気になったのも、そこが何の繋がりもない人々が集まる場所だったからだろう。

 私が言う「話し相手」に話す内容は、私に深く根差すもの――私自身のものであるからこそ。

 私は彼女に様々な話をした。私自身が本であるかのようだった。食事の際、デートの時、一つの布団の中で微睡み合っている時でさえも、私は彼女に話していた。それはおおむね私自身のことであった。
何でもいい。その日にあったこと、職場でのこと、読んだ本、読んできた本、見てきた映画、行った場所、取り組んだ学問、汗を流したスポーツ、郷愁を感じる子供時代、ただただ無謀でしかなかった思春期、絶望の香りと希望の息吹を感じた学生時代。
 それらを言い換えるなら――孤独と言うあまりに陳腐な概念だろうか。
 それでも私は、彼女に語りかける度、話に熱が入る度、感じずにはいられなかった。

 ああ。
 自分には、こんなにも深い闇が、穴が、あったというのか――と。

 だが、そう感じる一方で――忘れていたことがある。
 語りかける存在。彼女はどうなのだ? 私のようなあまりに平凡な人生を送ってきた男でさえも、こんなに深い洞穴を隠し持っていたのだ。自分を一般論の素材にする奢りがあるわけではないが、おそらくはきっと人間皆がそうなのだろう。だからこそ世の中には物語が溢れているのだ。
 彼女のことを私は、最小限のことしか知らない。名前、出身地、年齢、家族構成、好きな作家、好きな歌手、好きな色、好きな季節、好きな食べ物、好きな教科――そんな、子供が集めるようなプロフィールカードに書かれるようなことくらいしか。
 自分が話す、話し相手がいる、聞き手がいる――その三色の蜜の甘さに陶酔し、塗れてしまったことで、私はある意味大罪を犯していた。
 私は、彼女の奥底にある話を聞いていない。彼女の過去を知らない。あるいは彼女という形を、言語を介して手にしていないじゃないか。
 彼女は――有り得るはずがない危機感が、私の中で首をもたげるのは、私が彼女が、フィクションを、ファンタジーを愛する故だろうか。物語的な出逢いを果たしたからだろうか。
 彼女は、私の、都合の良い幻想なのではないか。

 そうじゃないのか。

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